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◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(七)
◆◇◆七夕と『竹取物語』、隼人(海人族・海神族・南九州)の竹文化(竹民俗)
隼人(海人族・海神族・南九州)は竹文化(竹民俗)と関係が深く、朝廷によって畿内に早くから移住させられ、竹器製作に従事していた。また、大和国吉野などには竹林が移植されていた。隼人の畿内の移住を通して、奈良あるいは平安時代の竹文化(竹民俗)が伝承されていったようだ。
ここには、隼人(海人族・海神族・南九州)の竹文化(竹民俗)と『竹取物語』の関係がある。『竹取物語』は、隼人に伝承されてきた説話や中国華南の説話(竹や羽衣をモチーフにした伝承説話)などが、日本で段階的に「説話」から「物語」へと発展し、平安初期にはほぼ今見るような「物語」として定着していったようなのだ。
◆◇◆七夕と『竹取物語』、「かぐや姫」と満月信仰・観月民俗
かつて日本の基層文化(南方モンゴロイドがもたらした、ニッポンの焼畑イモ文化・汎アジア文化)として、観月ならぬ「月見」行なわれていた。月見は正月以前の「正月」であったとされている。この忘れられた民俗の古層から生まれたのが「かぐや姫」であったのであろうか。
こうした「十五夜」「月見」との関連から、満月信仰や観月民俗が「かぐや姫」(かぐや姫という名前は、光を意味する「かがよふ」からきているとも)を誕生させたとの指摘もある。
◆◇◆七夕と『竹取物語』、かぐや姫にまつわるさまざまな説
かぐや姫と『古事記』の迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)との関連を指摘する説では、『古事記』上巻で豪族・大筒木垂根王(おおつつきたりねおう)の娘として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が登場する。
京田辺市内には集落「大筒木郷」があったとされ、大筒木垂根王がこの地域の長で竹取物語の「竹取の翁」だと推定し、「京田辺が竹取物語の発祥地」という説を唱えている。
他にも、全国で「竹取物語」に関係するとされる場所は静岡県富士市、奈良県広陵町、京田辺市、京都府向日市、香川県長尾町、岡山県真備町、広島県竹原市、鹿児島県宮之城町などがあり、それぞれに伝承が残されている。
スサノヲ(スサノオ)

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(六)
◆◇◆七夕と『竹取物語』、ふじの煙(富士の煙)、原文
『竹取物語』末尾・「ふじの煙」の原文は、こうだ。「その後、翁・女、血の涙を流して惑へど、かひなし。あの書おきし文を読み聞かせけれど、『なにせむにか命もをしからむ。たがためにか。何事も用もなし』とて、薬も食はず、やがて起きもあがらで、病み臥せり。中將、人々具して帰りまゐりて、かぐや姫を、え戰ひ止めずなりぬる事、こまごまと奏す。薬の壺に御文そへ、まゐらす。ひろげて御覧じて、いといたくあはれがらせ給て、物もきこしめさず。御遊びなどもなかりけり。大臣上達を召して、『いづれの山か天に近き』と問はせ給ふに、ある人奏す、『駿河の国にあなる山なん、この都も近く、天も近く侍る』と奏す。これを聞かせ給ひて、《逢ことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ》かの奉る不死の薬に、又、壺具して、御使に賜はす。勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せ給ふ。そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を『ふじの山』とは名づけゝる。その煙、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ伝へたる。」
◆◇◆七夕と『竹取物語』、かぐや姫とコノハナサクヤ姫
『竹取物語』末尾・ふじの煙(地名起源説話・富士縁起譚)には、後日談として、かぐや姫が月に帰る際、地上での生活の御礼にと翁や帝に残していった「薬の壺」のエピソードが語られている。帝は貰った不死の薬を、「かぐや姫にもう会えないのなら、不死の薬も意味がない」として、天に最も近い山で焼いてしまうように臣下に命じる。
この山は後に「ふしの山」、富士山と名付けられたそうだ。この富士山には徐福伝説や蓬莱伝説などが伝承されており、また浅間神社があり、その祭神はコノハナサクヤ姫である。「かぐや姫」とはコノハナサクヤ姫の別名という説もあるのだ。
また、不死の薬が月の世界にあるというのは、中国の伝説でも語られている。張衡『霊憲序』によると、西王母から不死の薬をいただいたゲイ(難しい漢字)の妻、仙女嫦娥(じょうが)が薬を奪って月へ行き、月の都を建てたのだという。
もしかすると、かぐや姫は嫦娥(じょうが)の宮殿に住んでいたのかもしれないかも? 『竹取物語』の中には、不老不死の神仙思想(道教の神秘思想)を見ることができる。奈良・平安初期の人々が厚く信仰したのは仏教や陰陽道(陰陽五行に基づく呪術体系)であり、そのうえに「天の羽衣」のような天女伝説が融合・接合したようにも思える。
スサノヲ(スサノオ)

◆7月7日の七夕、星の物語と祓の行事
◆◇◆七夕は星の物語と「祓」の行事、盆と深く関係する民間行事
7月7日は、牽牛と織姫が1年に1度だけ天の川で出会う日とされいる。美しい星空を見上げながら、そんな星物語が語られる七夕であるが、わが国では、旧暦の七夕はちょうど夏の収穫の時期とも重なり、この七夕の日は作物の実りを神様に感謝する収穫祭の日でもある。
他の多くの行事がそうであるように、七夕も元々は中国から渡って来たものであった。神の怒りをかって天の川の両側に隔てられた二つの星が、カササギの橋を渡って1年に一度だけ会える夜とされている。私たちがよく知る、この牽牛(けんぎゅう、彦星)と織女(しょくじょ、織姫)の物語もその発祥は中国なのである。
織女星は糸や針を司る星だったことから、この日に2つの星にお供えをすれば、織姫にあやかって機織りや裁縫が上手になるという言い伝えが生まれ、やがてそれは「乞巧奠(きこうでん)」という儀式になった。この2つの星の物語と「乞巧奠」が一緒になって日本に入ってきたのが、そもそもの始まりである。
この「乞巧奠(きこうでん)」は、奈良時代以降に宮中の年中行事に入り、室町時代には詩歌・管弦のの遊びや、芋の葉に溜まった露を使って墨を擦り、和歌を詠むことなども追加された。江戸時代になると、民間行事の中から手習いの上達を願う意味が追加され、竹に願い事を書いた短冊を結び付けて縁側や軒に立てることが広まる。
一方、日本には「棚機(たなばた)」に関連する「祓(はらえ)」が、旧暦の7月7日頃に行われていた。棚機とは、布を織る機織器のことである。これは、お盆に先祖をお迎えする前に、村人たちの穢れを神様に持ち去ってもらおうとする神事で、奥深い水辺の機屋に穢れを知らない棚機津女(たなばたつめ、布を織る女)が篭って神をお迎えし、お祓いをするというものであった。
この行事が7日の夕刻、「七夕」と書いて「たなばた」と読ませるのもここから始まっています。また、七夕には多種多様な行事が各地あり、真菰で作った「七夕馬」・海や川へ流して穢れを祓う「七夕送り」などがあります。この後に続く盆との関係からか、身を清めて物忌みをする日・穢れを祓う日と考えられていたようです。
本来、旧暦5月5日(端午の節句)は、田植えなどの農作業の時期にあたり豊穣豊作を祈願する日であった(都市部では多湿な季節を無病息災に過ごせるよう厄祓いする日である)。そして、旧暦の7月7日(七夕)は梅雨明けの祭り・行事の日である。
しかし、明治政府は明治六年(1873年)、旧暦から新暦へと変更すると端午など五節句を廃止したため、雛祭り・端午の節句・七夕は一時衰える。しかし、その後七夕は新暦7月7日に、年に一度の星祭りとして短冊に願い事を書き笹の枝に結ぶ行事として盛んになっていくのだ。
各地の残る民俗行事では、女性が髪を洗い、水浴びや行水を行い、井戸をさらい、膳洗い、硯洗い、虫払いをするなど、梅雨の間の穢れを水で祓う(梅雨の穢れを水に流すなど水に関連した)行事が多く伝わる(現在は、新暦・旧暦・月遅れと地方によって異なっている)。
それは山青く水清き日本列島の自然環境(東アジアのモンスーン地帯の稲作文化圏でも降雨量の多い国、梅雨文化圏)が、日本人の自然観や素朴な神観念を生み出していく。特に水への信仰は、生きとし生けるものを育み、すべてを清めるとの観念があったのだ。
こうして、日本列島の自然環境とそこから生まれた精神風土は、日本に独自の「水の文化」「水の信仰」を育んだのである。
スサノヲ(スサノオ)

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(五)
◆◇◆七夕と『竹取物語』、「竹中生誕説話」と「三のこだわり」
『竹取物語』の特徴は、羽衣伝説に加えて「竹中生誕」にある。すなわち、竹から生まれたこととその小ささだ。竹取の翁(おきな)がかぐや姫を竹の中に見つけたとき、彼女は三寸くらいの女の子だった(三寸というと、大体9~10cmほど)。こうしたかぐや姫の誕生は、「竹中生誕説話」といわれている。
竹は、その驚異的な生長力(「タケ=長ける、猛る」)や、不死と見紛うほどの生命力から、神秘な力を秘めた神聖な存在として、信じられ尊ばれてきた。また、邪霊を払う呪力を持つとされ、弓矢にも使われた。さらに、成長した竹の空洞は女性の子宮にあたるとも言われ、かぐや姫はそういう竹の節が作る神聖空間に生まれたとしている。
また、『竹取物語』は「三」にこだわる物語だ。かぐや姫を竹の中に見つけたとき、三寸くらいの小ささである。それから「三月(三ヶ月)」の間に普通の背丈まで生長し、その成人のお祝いを「三日」かけて行う。
彼女への求婚者は現在伝わっている物語・「五難題」型求婚説話(五人の貴人の求婚)では五人だが、文章の中に元は「三人」だったのではないかと思わせる痕跡が残っている(初めは昔話常套の三題物であり、その三題にも幾種かある)。この時、姫から難題を出された求婚者たちはその難題に「三年」かけて取り組み、全員失敗する。
◆◇◆七夕と『竹取物語』、「五難題型求婚説話」と五人の貴人(貴公子)
江戸時代末期に『竹取物語考』と言う本で加納諸平が、この五人(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足)は奈良時代の「壬申の乱」に関係のある人物の名前であると推定している。
また『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する五人の貴公子の官職と名前がはっきり書かれている。確かにかぐや姫は竹から生まれた架空の人物かも知れないが、かぐや姫に求婚する五人の官職と名前が『日本書紀』に記載されていることから、この物語のモデルとなった場所、年代がわかってきた。
◆◇◆七夕と『竹取物語』、五人の求婚者の名前と難題物
求婚者の名前と難題物、さらには語源譚を一覧にしてみるとその構成が巧みだ(「五難題」型求婚説話)。 また、五人「壬申の乱」(六七二年)に活躍した実在の豪族の名が使われている。
(1)石作皇子(いしつくりのみこ)-仏の御石の鉢-「はち(鉢・恥)を捨つ」:丹比嶋真人?(たじひしままひと)と同一人物
(2)車持皇子(くらもちのみこ)-蓬莱の玉の枝-「玉(魂)さか(離)る」:藤原不比等?(ふじわらふひと)と同一人物
(3)右大臣阿部御主人(うだいじんあべのみうし)-火鼠の皮衣-「あへ(あべ)なし」:実名通り
(4)大納言大伴御行(だいなごんおおとものみゆき)-龍の頸の玉-「あな食べがた(難)」:実名通り
(5)中納言石上麻呂足(ちゅうなごんいそのかみのまろたり)-燕の子安貝-「かひ(甲斐・貝)あり」 :物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と同一人物
スサノヲ(スサノオ)

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(四)
◆◇◆七夕と『竹取物語』(『竹取翁の物語』、『かぐや姫の物語』)
七月七日は七夕である。七夕と聞くと、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮ぶ。また、七月七日は「竹・たけのこの日」でもあるそうだ。全日本竹産業連合会が、一九八六年(昭和六十一)に、この日を「竹・たけのこの日」と定めた。
理由については、農産物関係者が集まった席で「かぐや姫が生まれたのはいつだろう」という話になったそうだ。出席者の中から、「七月七日じゃないだろうか」という発言がでたことで、「竹・たけのこの日」(竹・たけのこのPRデー)が定められたそうである。かぐや姫は竹から生まれたので、かぐや姫の誕生日を竹にちなんだ記念日にしたそうである。
『竹取物語』の冒頭には「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、本光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光たり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしくしうて居たり。翁いふやう、『われ朝ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ、子になりたまふべき人なんめり』とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。妻の嫗に預けて養はす。うつくしきこと限りなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。」とある。
◆◇◆七夕と『竹取物語』、『竹取物語』と「羽衣伝説(天人女房説話)」
かぐや姫を主人公とする『竹取物語』は、七夕と案外関係があるのかもしれない。この物語は古い説話などの要素を取り入れて、作られたと言われているが、羽衣伝説(天人女房説話)も影響を与えた要素の一つとされている。
地上に降りて来た天女が水浴中に、人間の男により羽衣を隠され、天に帰れなくなる。天女は仕方なくその男と夫婦になるのだが、やがて羽衣を取り返して天に去ってしまう、という羽衣伝説だ(『丹後国風土記』逸文の奈具社の天女説話など類似の先行伝承がある。この残された天女は豊受大神だともされている)。
また、三輪山型説話のような、「異郷」から来訪する神と地上の人間との婚姻を語る「神婚説話」とみることもできる。
このタイプの伝説は、日本だけでなく世界中で語り継がれているが、その中には、羽衣を取ったのは老夫婦で、天女はその養女になる、というものや、天女に去られた男が、後を追って昇天し七夕の星になる、というストーリーもある。
このタイプが分布しているのは中国と日本だそうで、老夫婦タイプも、昇天タイプも、かぐや姫と七夕と密接な関係を感じさせる(遙か昔から、東アジア・東南アジア・西太平洋地域にあまねく様々な羽衣伝説が流布していた。それは『万葉集』の「竹取翁」型を始め、鶴女房型、浦島型、七夕型、かぐや姫型など多様だ)。
こうした両者の関係から七夕を、かぐや姫の誕生日に結び付けたようなのだ(全日本竹産業連合会「竹・たけのこの日」の由来)。また、竹取の翁がかぐや姫を竹の中に見つけたとき、かぐや姫は三寸くらいの女の子とされている。三寸というと大体9~10cmほど。そのくらいの大きさのかぐや姫が入る程度に、竹が生長するのが七月上旬だったのであろうか。
スサノヲ(スサノオ)