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◆春、花見の由来は祓いのための宗教的行事
◆◇◆花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事、元々は神事でお祭りだった
桜の木の下での春の楽しみといえば、お花見でだ。「三日見ぬまの桜かな」と歌われたように、うっかりするとすぐに散ってしまうのが桜である。
定番のお花見といえば、桜の木の下で日頃の憂さ晴らしとドンチャン騒ぎ、その日ばかりは無礼講のようでだ。今日においてはお花見とは名目で、本当は桜は酒の肴にすぎず、飲み食いに重点があるようである。
しかし、花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事だったようである。期日が設定され、野山に出かけ花を愛で、その下で楽しむことで、厄を祓(はら)い神さまと過ごすとされていた。
かつては、秋の稔りを願い、花の下でお祭りをし、花で収穫を占ったのである。開花は神様が降りられた証で、パッと散ると凶とされた。
お花見は平安時代より貴族が始め、今の京都の二条城のあたりに天皇が行幸(ぎょうこう)し桜見物を行ったそうである。その後、貴族・武士の間で盛んになり、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」は有名だ。
江戸時代になると庶民の娯楽として定着する。桜の季節が近づくとなぜか心が弾む。日本人にとって、花見はきってもきれない春の楽しみになってしまったのである。
お花見といえば 「桜」、何故だろうか? 「花」といえば「桜」をさすほど日本人にとっては大切な花となった。
また桜は山の神が降りてくる時の目印になる木として、特別に神聖視されており、お花見に付き物のお酒も、本来は神に供えたお下がりを皆でいただくものであった(今は、全く本来の意味を忘れてしまっていますね・・・苦笑)。
さくらの「さ」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)、「くら」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)のおわします座を意味し、桜の木は神様の依り代であるのだ。
また、「咲く」から来ているという説もあり、花といえば桜、咲くといえば桜だったとしたら、これも長い歴史の中で日本列島に受け継がれてきた精神的遺産(無意識の日本人好みの花として)ということだろうか。
スサノヲ(スサノオ)
◆春、花見と団子と稲作信仰
◆◇◆団子と稲作信仰、三月は十六団子、四月は花見団子・・・
団子は昔から季節に応じて食べられてきた。三月は十六団子である。山の神さまが下りてきて田の神さまになる時にお供えするものだ。
四月は花見団子である。桜を見ながら、桜色の団子や三色団子などをいただく。旧暦八月には月見団子。中秋の名月を見ながら、白い団子を頂く。十一月にはまた十六団子。今度は田の神様が山に戻って山の神様になるのにお供えする。
◆◇◆団子の起源と語源
日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃であろうといわれている。初期の団子はいわゆる「粢(しとぎ)」で、米・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・豆・椚(くぬぎ)の実・楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子であった。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式だ。
「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではないが、中国の「団子(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)」から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説、などなどがある。
串団子は室町時代頃に発生したと言われてるが、最初の頃は五個刺すのが基本であったが明和年間に四個のものがはやったとされた。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺している。
スサノヲ(スサノオ)
◆春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り
◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)
春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされていた。そして山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされていた。
サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言う。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうだ。
このように、サクラは稲作信仰と強く結びついている。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうだ。ちなみに、サクラはバラ科で、原産地は韓国済州島である。
◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)
民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れる。
一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在した。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもある。
◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)
「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことである。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われる。
花祭りは、仏生会・浴仏会・灌仏会などとも言う。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようだが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われている。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようだ。
この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛ける。
またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもある。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もある。
お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われる。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがある。
スサノヲ(スサノオ)

◆神野山周辺の巨石群は、古代の磐座信仰か?
◆◇◆山添村の神野山周辺の巨石群は、星座を地上に投影したイワクラ(磐座)信仰を示すのか?
奈良県山辺郡山添村の神野山周辺に点在する巨石群は、古代に信仰の対象となったイワクラ(磐座)ではないか?・・・。
夏の大三角形を構成する星々と天の川を地上に投影したものではないか?・・・。
山添村では、巨石研究の動きが活発化している。近く、「山添村いわくら研究会」を設立するほか、巨石研究に取り組む全国ネットワーク「イワクラサミット」の開催を計画するなど、太古の文明に対する関心が沸き起こっているのだ。
山添村では、こうした不思議を研究する研究会を設立し、議論を活発にすることを計画しているようである。全国でイワクラ(磐座)を研究する自治体や民間研究者らが集い、2002年は秋田県で「第4回イワクラサミット、イワクラ・サミットin秋田」(秋田県田沢湖町と西木村の共同開催)開催された。
山添村の神野山(高さ618.8メートル)周辺には、巨石が多く点在している。周囲の地質とは異なる岩石が幅二十五メートル、長さ約六百五十メートルにわたって密集している「鍋倉渓(なべくらけい)」のほか、神野山の山頂付近にある伝説上の姫の墓とされる王塚、山頂北側の高さ七メートル、幅八メートルもある八畳岩、東側の高さ二メートルを超える天狗岩など、なぜそこにあるのか説明の難しい岩石群が多数存在してる。
特に「鍋倉渓(なべくらけい)」は、周辺が花崗(こう)岩質であるのに対し、火成岩の一種である角閃班糲岩(かくもんはんれいがん)が川のような形状で密集しており、前地質時代に山の表面が風化して土壌化する際に、堅い岩石だけが残ったとされているが、珍しい現象であるため、奈良県の自然公園の一部に指定されている。
山添村には、神野山の天狗と上野(現在の三重県上野市)の天狗が喧嘩をし、岩を投げあったなどの伝承が残っている。こうした岩石群について、イワクラ(磐座)を研究する民間研究者の匠里都市研究所(大阪市)の柳原輝明所長が着目しました。
王塚、八畳岩、天狗岩が、夏の大三角形を構成する白鳥座のデネブ、琴座のベガ、わし座のアルタイルの位置関係と一致する上に、「鍋倉渓(なべくらけい)」も天の川の位置に一致するとして、「天空の星の位置を地上に投影したものでは」とする説を打ち出している。
巨大な岩を信仰の対象とする「イワクラ(磐座)」は全国各地にあり、ご神体として岩を祭る神社も数多くある。山添村にも、「山の神」信仰があり、巨石を祭る風習が今も残っている。柳原輝明氏(匠里都市研究所)は「古代人からのメッセージ」として、イワクラ(磐座)の可能性を指摘する。
『日本超古代遺跡』などの著書がある歴史ノンフィクション作家の鈴木旭氏は、「神野山を中心に意味不明の岩がたくさんあり、忘れられたご神体としての重要な意味を持つのではないか。岩を神として祭るイワクラ(磐座)は、古代には山間部を中心に全国各地にあったが、長い年月のなかで破壊されてきた。山添村は、手つかずで残っている数少ない土地といえる」と話す。
※参考HP(ホームページ)
◆山添村のホームページ
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/
スサノヲ(スサノオ)

◆奈良・山添村、神野山の巨石群は「天の鏡」
◆◇◆奈良山添村・神野山の巨石群(磐座=いわくら)はヘブンズ・ミラー(天の鏡)?
日本民俗学の先駆者・柳田国男は『遠野物語』の序に「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いた。
山人とは「この島国に昔繁栄していた先住民の子孫である。その文明は大いに退歩した。古今3000年の間、彼らのために記された一冊の歴史も無い」と柳田国男は書く。
遥か昔に、この日本列島に住み生きた人々(縄文人)のことである。この日本列島には、さらに古くから住み着き、文明を築いた人々の痕跡が残されている。
その一つが2002年の4月に見つかった、奈良県山辺郡山添村の神野山周辺に点在する巨石群(4000年前と1万8000年前とする2つの説があり、これはデネブの位置から推定)である。もしこのことを柳田国男が知ったなら、さぞ驚いたに違いない。
山添村の神野山(奈良県と三重県の境にある大和高原の山)周辺に点在する巨石群は、GPSの調査などで星座の位置が一致したため、夏の大三角形を構成する星々と天の川を地上に投影したものでないかと考えられている(夏の大三角形に対応する巨石が王塚=デネフ・天狗岩=アルタイル・八畳岩=ベガ、天の川がなべくら渓、蠍座のアンタレスに対応するのが竜王岩、古代七夕信仰の跡なのか? 北極星=神野寺があり古くは巨石か祭祀跡があったのか? 北野の明星岩は金星か? オリオンの三つ星に対応する巨石も見つかったそうだ)。
グラハム・ハンコック氏の地上の遺跡は天体の星座などを写したものとする「ヘブンズ・ミラー(天の鏡)」説に似て大変興味深いものだ。
また、名阪国道山添インター近くに「ふるさとセンター」を建築中に、工事現場の土中から巨大な円球(直径7メートル・700トン、コスタリカのような真円球)が姿を現し、大騒ぎとなった(長寿岩と命名されました)。
不思議なのは円球の縦横十文字に走る線が刻まれており、自然の造形物にしては、あまりにも幾何学的すぎるのである(この地方だけに見られるものだが、弱まった太陽の復活を祈るために祭られたと考えられている)。
この巨大な円球形の巨石から夏至の太陽が昇ってくる方向に神野山がある(神野山は古代太陽信仰の聖地であったようだ)。
この近くの神野山の「なべくら渓」は、周辺の地質(花崗岩)と異なる石で、幅約25メートル、長さ約700メートルにわたって渓流のように連なっており(大小の黒い岩石が谷一面に累々と重なり)、まるで溶岩の流れのような奇勝だ(自然現象としてはまったく説明できないとされる。地元の昔話によると、神野山の天狗と伊賀の天狗がけんかして石を投げ合ったためにできたという)。
また、「なべくら渓」の天の川を表している角閃班勵石(かくせんはんれいがん)は生駒山付近等で採掘される石で、山添村ではここでしか見られないものだ。
さらに、神野山を夏至の方向に東へ行くと中峰山があり、そこにも巨石群の大亀石・手毬石・船岩などがあり、岩刻文字(ペテログリフ)などが残されている。
今から数千年前から一万年前の昔、山添村に住み着いた人々が、こうした巨大な岩石を中心に、いくつかの石をそれを取り囲むようにして作った古代の人々の祈りの場であったのだろうか。
神野山山頂を中心に周辺を調べると、同心円状に神社が配置されており、ほぼ等距離離れている。さらに、神野山の北側約1350メートルのところを東西に神社や古代の祭祀場が直線状に並んでいるのが読み取れる。これらの遺跡は、太陽の動きに対して何らかの祈りを捧げる儀式をしていたことは間違いないと思われる。
しかし、巨石はいまの土木技術でも動かすのは大変なのに、古代の人はどんな風にして動かしたのであろうか? 山添村には、説明のできない太古の謎が数多く残されている。
天の川の地上絵(ヘブンズ・ミラー=天の鏡)が出たことは、山添村ではちょっとした騒動となり、研究会が設立されるなど盛り上がりを見せている。
山添村には、三つの代表的な山がある。神野山、茶臼山、高塚山の三山だ。最高峰は神野山で、まさに「神の山」「神体山」であった。また、山添村には、古くから山の神信仰があり、巨石を祭る風習が今も残っている神々の聖地だったのである。

スサノヲ(スサノオ)