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◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(六)
◆◇◆七夕の起源:(6)、スサノオ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)
『古事記』「高天原」説話に、スサノヲ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)誓約(うけひ)の際、「天の安の河」を挟んで相対する。ここには「天の真名井(神聖な井)」が登場し、誓約の儀式に「水」が非常に重要な意味を持つことがわかる。
次に高天原において、アマテラス(天照大御神)の弟神であるスサノヲ命(須佐之男命)が荒れ狂い、乱暴狼藉の限りを尽くす場面がある。畦を壊し、水路を潰し、神殿を汚し、更には皮を剥いだ馬を屋内に投げ込む(天津罪)。これはアマテラスの天岩戸隠れの原因になる事件なので多くの方が知っている話だ。
この時、馬を投げ込んだところが忌服屋(いみはたや)という、神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)を織る神聖な機織りのための部屋である。この場面 は「棟(むね:原本では「頂」。屋根の意か)」に穴を開けてそこから馬を投げ込んだ、とあることから機織りのためだけに家屋があった、または他の仕事部屋と一緒であっても「忌服屋」と名がつけられている以上は、他とは仕切ってあったと考えらる(※注)。
これらのことは、七夕の織姫(織女)と彦星(牽牛)の関係と、なんらかの共通性を示しているのかもしれない(類型説話)。また天岩戸隠れの条に、アマテラス(天照大御神)が岩戸に隠れた際、「下の枝には青い神衣、白い神衣を懸けて祈りを捧げた」とある。この神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)を織るのは、神に仕える巫女の仕事だったといわれている。神衣は文字通り、神様に捧げる供物であると同時に、地上に降臨した神様に着せるための衣であったのだ。
七に夕と書いて「たなばた」と読ませるが、元の表記は「棚機」だ。機は 「き」ではなく「はた」と読むから、これは織物を織ることを指す。 この織物は普段に着る着物ではなく神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)と呼ばれる神に捧げるための布である。
「棚」は(普段生活するところよりも)一段上げて 作った場所のことだ。機を織るために特別に場所を作り、そしてその場所は一段上げることによって生活圏内と厳然と区切る。現代でも神棚を最も高いところに設えたり、地鎮祭で注連縄(しめなわ)を張ったりする。
これは神の場所と人の場所、それぞれ区切っているわけだ。だから人が日常使用する服ではなく、神のための衣を織るのに棚を作るのは日常の生活空間から切り離し、非日常空間を構築するために必要なことであった。一種の結界ともいえるその場所で、身を浄めた織り子が神御衣を織るのだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注) アマテラス(天照大御神・天照大神)も、また、棚機津女(たなばたつめ)の属性を帯びている。『古事記』上巻に、「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かんみそ)を織らしめし時、(中略)天の服織女(はたおりめ)、見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき」。
『日本書紀』神代上第七段本文には、「天照大神の、みざかりに、神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居ましますを見て」。
また、『日本書紀』神代上第七段一書第一には、「稚日女尊(わかひるめのみこと)、斎服殿(いみはたどの)に坐(ま)しまして、神之御服(かむみそ)織りたまう」。さらに、『日本書紀』神代上第七段一書第二には、「日神(ひのかみ)の織殿(はたどの)に居します時」などが、それを示す。
スサノヲ(スサノオ)

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(五)
◆◇◆七夕の起源:(5)、七夕の変遷
中国には、牽牛・織女の二星を、農耕と養蚕・染織をつかさどる星として、巧(たくみ)になることを乞(こ)ひ祀る(まつる)「乞功奠」(きこうでん)と呼ぶ古くからの風習があり、これが平安時代、貴族の間でも行なわれるようになった。
清涼殿(内裏の御殿のひとつ)の東庭に莚(むしろ)を敷いて机(き)を置き、酒、肴、果物、菓子などと共に、五色の糸を通した七本の針や布などを供え、夜通し香を焚き、燈明をあげ、織姫にあやかって、裁縫や機織(はたおり)の上達を祈る祭りであった。
その後、琴や琵琶なども置き、歌舞音曲などの技芸上達を願ったり、七つの硯(すずり)に、芋の葉に生まれる露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて、詩歌・文字の上達を祈るなど、次第に華やかなものとなっていく。
今も京都御所北隣の冷泉家(れいぜいけ)の行事として、袿姿(うちきすがた=平安時代の女性の礼装)に装った歌道の門人たちによって古式ゆかしく乞巧奠(きこうでん)が行なわれ、座敷の南庭には「星の座」に供える品々が並べられる。
中世の宮中では、七夕にちなんで「七遊」(ひちゆう)と称し、「歌」「鞠(まり)」「碁」「花札」「貝合」(かいあわせ)「楊弓」(ようきゅう)「香」におよぶ七種の遊びや、七百首の詩歌、七十韻の連句、七調子の管弦などが催され、「七献の酒」を酌み交わして、天皇や公卿(くげ)たちも大いに楽しんだという。
江戸時代になると、庶民の間には歌や願いごとを書いた五色の短冊や切紙細工を吊るした笹竹を、家ごとに飾るという風習が広まりました。短冊の代わりに梶(かじ)の葉を使ったり、機織糸(はたおりいと)にみたてた素麺を食べるなど、いかにも楽しい、しゃれた祭りへと変身していったのだ(※注1)(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 七夕行事は、日本では孝謙天皇の天平勝宝七年(七五五)に宮中で催されたのが始まりとされている。古くは、七本の針に五色の糸を通して巧みな機織を祈り、琴を机の上において香炉を炊き、芸の上達を願った。
蜘蛛占い(蜘蛛を小箱にいれ、翌朝巣の張り方を見て乞巧のききめを占う。巣が細かければ上達する)や、針占い(針を水面に浮かべ、椀の底にうつる影で占う。影がピンとしていれば吉)なども行なわれた。のちに、七夕行事として歌を供えるようになり、梶の葉に歌を書き、硯や筆などを供えた。
江戸時代になると笹竹を立て、芋の葉の露で梶の葉に和歌を七首書いたりしたそうだ。やがて笹竹は長い竹となり梶の葉は短冊に代わって、願い事も裁縫・歌舞・詩歌から恋人・良縁・合格・幸福へと変遷し、今の七夕になっていくのである。
(※注2) 庶民の間では、日本古来の棚機の信仰が中国の織り姫・牽牛信仰と結びつき独自の発展を遂げていく。七月七日の七夕の夜に牽牛と織り姫が会い、翌日には天空に帰っていく。その時に 禊ぎ(みそぎ)を行い穢れ(けがれ)を持ち帰って貰うという考えで、七夕の竹飾りの風習ができたと言うことだそうだ。
七夕には笹竹を立て五色の短冊を付け、その短冊に歌や手習いの文字を書きます。字が上手になるようにとの願いをあらわして、里芋の葉にたまった露で墨を擦って習字をすると字が上手になるという教えも生まれた。それから、笹竹に人形を結びつけ七夕の終わりに穢れ(けがれ)を持ち帰って貰うために川や海に流す習慣も生まれたが、これは七夕送り・七夕流しと呼ばれている。
このように、七夕の竹飾りに願いを込めて書いた短冊を付け祭りの期間が終われば笹竹ごと水に流すという風習は、日本独自のもののようだ。この竹飾りは次第に派手さを競うようになり、仙台の七夕・平塚の七夕などでは、豪華な吹き流しを付けたり紙細工による飾り物を付け、客寄せの飾り付けとなっていく。
スサノヲ(スサノオ)

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(四)
◆◇◆七夕の起源:(4)、祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事
日本の農村では既にそれ以前より、棚機女(たなばたつめ)という巫女(※注1)が、水辺で神の降臨を待つという「禊ぎ(みそぎ)」の行事(※注2)があった。
七夕伝説自体は、中国・日本だけでなく、朝鮮半島・東南アジアの国々に広く分布しているが、アジアの七夕伝説は、大水で流されて二人が離ればなれになったり、水はよくないものとする傾向が強いのだそうだ。それに対し、日本の農村の七夕では、雨が降ると穢れ(けがれ)を祓うという意味で、水をよいものと捉える傾向がある。
この行事は、ちょうど稲の成長期である、旧暦のこの時期(八月)は、農家にとって雨の欲しい時期でもあるため、七夕は「水神祭」であるとも考えられ、神社等で雨乞いの行事も行われたそうでだ。れっきとした日本の伝統に基づいた「雨乞い」の儀式でもあったのである。
このように、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水に関わる農耕儀礼の性格を持ち、さらに、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」「七日盆(なぬかぼん)」という祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事や、胡瓜や茄子を神の乗り物の馬や牛の形にして供え、田畑の収穫を神々に感謝する庶民の祭りがこれに加わり、日本独特の七夕行事が生まれた(※注3)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 棚機津女は、水辺で機を織りながら神の訪れを待つ少女のことである。『日本書紀』は、ニニギ命(瓊瓊杵尊)の妃となるコノハナサクヤ姫(木花開耶姫)を、「神代下第九段一書第六」において、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」というように棚機津女として描いている。
その織り上がった織物は、神が着る衣(神御衣)であり、少女は神に仕えて神の精を妊み、神の妻となる巫女となるのだ。かくして、棚機津女もまた神として祀られる。『延喜式』は尾張国山田郡に「多奈波太神社」を、河内交野原の天棚機比売を祭神とする「機物神社」を記している。
(※注2) 日本には棚機津女(たなばたつめ)という、七月六日から七日に関係する信仰が昔からあり乙棚機(おとたなばた)とも呼びました。棚機津女とは、この時期に訪れる神様を迎えて祀るため、町や村の乙女が水辺の機屋(はたや)に籠もるというものです。七月六日に訪れた神様は、翌日の七日に帰ります。このとき水辺で禊ぎ(みそぎ)を行うと災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられ、七夕に水と関係がある行事が多く行われるのはその名残といえます。たとえば青森県の「ねぶた祭」などはもともと形代に災難とのかかわりを移し水に流す行事であったといわれています。またこの日は七回水浴びをすると良いとも伝えられています。
(※注3) 日本には、古来から盆迎えの祓(はら)えの信仰があった。七夕は五節句のひとつで、盆の前の禊(みそぎ)の日であり、笹竹やお供え物を川や海に流し、罪や穢れを祓う「七夕送り」を行う。この時期に訪れる神様を迎え、穢れを神に託す棚機津女(タナバタツメ)の行事も伝えられている。
盆(七月十五日)に先立ち、先祖の霊を迎えるための祭壇を作ったり、旗や幟をたて、七月六日の夜には「棚機女(ばたつめ)」と呼ばれる乙女が水辺の機屋で神様にささげる衣を織り、棚に置く。翌日七月七日の夕べ、棚機女が機屋から出てきたとき水辺で七夕送りの禊(みそぎ)をしたという。
「たなばた」は古くは「棚機」と表記していたが、七月七日の夕べの行事であったために「七夕」の字をあてたと言われている。七夕は麦の実りを祝い、キュウリやナスなどの収穫を神に感謝する収穫祭の時期でもある。この祭りのとき、人々は神様の乗り物としてキュウリの馬、ナスの牛を供え、お盆にご先祖様の乗るキュウリの馬とナスの牛に引き継がれている。
スサノヲ(スサノオ)

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(三)
◆◇◆七夕の起源:(3)、「乞功奠(きこうでん)」の風習
中国には、牽牛・織女の二星を、農耕と養蚕・染織を司る星として、巧(たくみ)になることを乞(こ)ひ祀る(まつる)「乞功奠」(きこうでん)と呼ぶ古くからの風習(※注1)があり、これが平安時代、貴族の間でも行なわれるようになる。
清涼殿(内裏の御殿のひとつ)の東庭に莚(むしろ)を敷いて机(き)を置き、酒、肴、果物、菓子などと共に、五色の糸を通した七本の針や布などを供え、夜通し香を焚き、燈明をあげ、織姫にあやかって、裁縫や機織(はたおり)の上達を祈る祭りであった(※注2)。
その後、琴や琵琶なども置き、歌舞音曲などの技芸上達を願ったり、七つの硯(すずり)に、芋の葉に生まれる露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて、詩歌・文字の上達を祈るなど、次第に華やかなものとなっていく。
今も京都御所北隣の冷泉家(れいぜいけ)の行事として、袿姿(うちきすがた=平安時代の女性の礼装)に装った歌道の門人たちによって古式ゆかしく乞巧奠(きこうでん)が行なわれ、座敷の南庭には「星の座」に供える品々が並べられる(※注3)。室町時代以降、民間にも広まったという(※注4)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)「乞功奠(きこうでん)」のような風習は、おおむね、奈良時代に中国から我が国にも伝えられました。その頃、この行事は「乞巧奠」と呼ばれ、「巧みであることを乞う祭典」という意味です。それは、女たちだけで営まれる女の祭りでした。現在のように、短冊をつるした笹竹を立てるというだけのものではなく、女たちは美しい衣装をまとい、ある限りの装身具を身に着け、庭にしつらえた台の上には、酒や瓜や餅などを供え、日頃自分たちが作った手仕事の作品を供えました。そして、香を焚いて天を礼拝し、手仕事の上達を祈りました。その上で、女たちは、七本の針の孔に色糸を通しました。
(※注2)上田正昭氏(京都大学名誉教授)によると、「私も庭園の文化に道教の影響があることは実感している。(中略)キトラ古墳の天文図に関連して興味深いのは七夕の信仰だ。七夕の信仰の起源は中国だが、北朝鮮の徳興里古墳の壁画にも、天の川と牽牛と織女が描いてある。五世紀初めには高句麗に七夕の信仰が入っていたことは確かだ。日本ではどうかというと、持統天皇の五年(六九一年)から宮中で年中行事として七月七日に宴を開いている。これは七夕に間違いないと思っていた。そして梅原さんも指摘されているが、万葉歌人の柿本人麻呂の歌集の中に七夕の歌がある。六八〇年の歌。ひょっとしたら、今回見つかった苑池で七夕の宴が開かれて人麻呂たちも参加していたのではないか。」と話す。
(※注3)七夕の行事は、公式の宮中節会としては失われていくが、宮廷貴族の間では個々の家において、その年中行事として続いていく。藤原俊成・定家以来、和歌を家職とし、その伝統を今日まで伝えている冷泉家では、現在でもなお、年中行事として、乞巧奠を行っている。
もとより和歌の家のこととて、夜空の星に祈るのは和歌の上達であり、織物や縫い物などの女性の手仕事の品を供えるのではなく、星を祭る祭壇に向かって、自らが作った和歌を朗詠するという。
(※注4)江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がる。この頃、「習字の上達を祈願して」笹に願いを書いた短冊をつけて飾る風習が生まれたようだ。
また、乞巧奠の流れを汲む七夕は、江戸時代に定められた五つの節供(1/7七草(人日)の節句、3/3桃(上巳)の節供、5/5端午の節供、7/7七夕の節句、9/9重陽の節供)のうちの一つとして定着し、武家・町人の社会に広がります。一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事としての要素が加わる。
日本古来の伝承(棚機女=たなばたつめの伝説)や風習(穢れを祓う行事)と、中国の行事(乞巧奠)がうまく混ぜ合わさったからこそ、七夕はいまでも日本の各地にさまざまな形で、大切に伝えられているのかもしれない。
スサノヲ(スサノオ)

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(二)
◆◇◆七夕の起源:(2)、古代中国の牽牛織女の伝説
天の川の東に織女と呼ばれる麗しい乙女がいた。織女は機織を天職としており、毎日明けても暮れても機を織りつづけ、髪を結う暇さえなかった。そんな織女の姿を見た天帝は可哀そうに思い、天の川の西に住んでいた牽牛という男と結婚させることにした。しかし幸せな結婚生活にすっかり酔ってしまった織女は、一日中牽牛の傍から離れず、機織の仕事を放棄してしまう。
それを知った天帝は不心得千万と怒って、「即刻天の川の東に戻って機織の仕事をするがいい。愛に溺れて仕事をなおざりにするとは何事か!今後牽牛とは年に一度だけ会うことを許すことにするから、そう心するがよい!」と織女を叱る。
織女は天帝の言いつけに背くことも叶わず、天の川の東に戻り、牽牛に会える日を待ちわびながら、懸命に機を織り続けたのだ。待ちに待った七月七日に雨が降って天の川の水かさが増すと、ふたりは東と西の川岸からただ恨めしげに水面を見つめ続けることしかできない。そんなふたりを見かねた鵲(かささぎ)が、天の川を渡す橋となって、織女を東から西の川岸へと渡してあげるという。
これは、『述異記』の星辰説話(せいしんせつわ)「牽牛織女」(※注)である(『述異記』は明代の張鼎思(ちょうていし)『琅邪代酔篇(ろうやだいすいへん)』に引く文によるもの)。織女=織姫は琴座のべガ、牽牛=彦星はわし座のアルタイル。ちなみに天帝は北極星である(※注)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 中国の古典の中での七夕の二星の初見は『詩経』の中の「小雅」の「小旻篇」で、皇帝などの役人がすべきことをしないことを嘆き、その例えとして「織女星は機を織らず、牽牛星も牛をひかない」といった表現で出てくる。ここには恋愛物語の影は見られない。他に『文選』や『四民月令』などにも書かれているそうだが、ここでも恋愛物語の片鱗も見られない。
それが『月令広義』や『爾雅翼』になると今に伝わるような物語になるそうだ。つまり漢代(B.C.一~二世紀)には今のような物語になったと推測される。七夕物語は大きく二つのパターンに分けられる。一つは機織姫と牽牛の結婚・別れ・再会物で、もう一つは羽衣伝説と言われる物語だ。後者は日本でも地方のオリジナル色の付いた物語として根付いている(琉球地方に多い)。
(※注) 梅原猛氏(国際日本文化研究センター顧問)によると、「七夕というのは牽牛、織女の話。牛は稲作農業には欠かせない。織女も機織で養蚕と関係がある。中国では黄帝の時代、ヒエ・アワ農業の北方民族が、稲作と養蚕を行う南の民族を滅ぼして統一する。黄帝の妻は南方の絹織物に大変興味を持って、南から機織の女をたくさん北へ連れて行ったという伝承がある。妻に会いたいという夫の悲しみが七夕の伝承を生み出したのではないかと、想像する。その養蚕の文化がどのように高句麗に伝わり、百済や新羅を経て日本に来たか。大変興味がある。」と話しています。
(※注) 夏の夜空、天の川を挟んで、ひときわ明るい光を放ちながら、相対する二つの一等星がある。東に位置するは琴座の主星「ベガ」(Vega)、西にあるのが鷲座の主星「アルタイル」(Altail)、その中間の天の川にあるのは、白鳥座の五つの星が作る北十字星だ。それらは、星空に壮大なロマンを描き出す七夕の星たちである。
中国では、ベガが、その近くの二つの星とで作る小さな三角形を「織女」と呼ぶ。アルタイルを真中にして、その両隣の二つの星とで作られる小さな一直線を「牽牛」(あるいは牛郎)と呼ぶ。白鳥座の十字形をなす星たちは「天鵞」と呼ぶ。
我が国では、織女三星を「織姫」(あるいは「たなばた姫」)、牽牛三星を「彦星」、そして、天鵞の十字星を「かささぎ(鵲)星」と呼ぶ。織女と牽牛とは相思相愛の仲であるが、いつもは、天の川に阻まれて逢うことが出来ない。しかし、一年にただ一度、七月七日の夜だけは、鵲が両翼を広げて天の川の上に架けた橋を渡って、逢う瀬の一夜を過ごすことができるだ。それが、七夕の夜なのである。
スサノヲ(スサノオ)