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◆『古事記』、神話のコスモロジー(一)

2007年02月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:48 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆『古事記』、神話のコスモロジー(一)

◆◇◆『古事記』、神話のはじまり

 『古事記』の冒頭は、「天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は、天之御中主神。次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。・・・」と、神の名を呼び上げるだけだ。この天地初発の神話では、天地の創造と高天原の創造については、語ることなく(触れることなく)神々の出現を述べるだけである。

 このことは、天地創造や高天原の神々の世界を広く語ることが主題(本題)でなく、天上界(高天原)が働きかけることにより、地上界(「くらげなすただよへる・・・」「是のただよへる国を・・・」)がどのようにして形成されて世界となったのかということと、神々の世界から天皇の統治する世界に収斂していく過程を、神話的に語ることにあった。

 言い換えれば、高天原の天津神の関与によって、地上界は初めて世界となったということを言いたいのである。然るに、地上界(葦原中国)は天上界(高天原)の天津神が支配・統治すべき国であることを、語ろうとしているだ。


スサノヲ(スサノオ)


◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(二)

2007年02月05日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 01:00 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(二)

◆◇◆お稲荷さん(稲荷神)と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社と狐 地図はこちら

 赤い鳥居に小さな祠、祠の前には二尾の狐。お馴染みのお稲荷さん(稲荷神)である。小さな路地から都心のオフィスビル街の片隅、それにデパートの屋上まで日本全国あちこちにお稲荷さんを見ることがでる。それもそのはず、お稲荷さん(稲荷神)は、もっとも広く信仰されている神様で、神社の三分の一を占め、日本一多く祀られているのだ。それだけ日本人に広く親しまれてきた神なのである。http://inari.jp/

 お稲荷さん(稲荷神)は五穀豊穣・商売繁盛・大漁守護の神として、民衆の日常生活に密着している身近な神である。中小企業の多い稲作型工業国家日本の繁栄と発展の精神的源泉となっているといえる。

 もともとは字の通り稲に関する神であった。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られている。

 このお稲荷さん(稲荷神)は、京都の伏見稲荷大社が信仰の発祥神社で、一般に伏見稲荷として知られ、全国三万余りの社の総本社となっている。この社と合わせ、佐賀・祐徳稲荷大社、茨城・笠間稲荷神社を日本三大稲荷と呼ぶ。

 また神社ではないが、愛知・豊川稲荷(正式名:円福山妙厳寺)は仏教のダキニテン(茶枳尼天)を稲荷神として祀る(江戸の名奉行・大岡越前守が信仰したことで知られる)。

 伏見の稲荷大社は、奈良時代の和銅四年(七一一年)二月の初午の日に、有力な帰化氏族・秦氏の遠祖がこの地に氏神の農耕神として祀ったのが始めといわれる。古代においては各地の豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神(氏神)を祀っていたのである。お稲荷さん(稲荷神)も初めはそういう神だったのだ。

 『山城国風土記』はこの「伊奈利社」(伏見稲荷)の起源伝説について、「秦中家忌寸(はたのなかやのいみき)らの遠祖秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)は稲米を貯えて裕福になったとある。

 あるとき餅を的にして矢を射いったところ、餅が白鳥になって飛び翔けり、三が峰の山上に止まり、そこに稲が生じた。不思議に思った伊侶具がそこへ神社を建て、伊奈利社と名付けた。」というものである。この伝承でもわかるように、イナリは元来「稲生り(いねなり)」であった。

 また、イネナリは主祭神の宇迦之御魂神が月読命に殺された時、その腹から稲が生えたところからの語源で、宇迦之御魂神の神名となったともいう。

 あるいは稲荷は、空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会うが、その翁が稲荷神であったともいう。

 ちなみに、お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからである。油揚げに寿司飯を詰めたものを稲荷寿司というのは、ここから来ている。

 いわば一地方に生まれたお稲荷さん(稲荷神)に対する信仰が、後に日本中に広がることになった大きなきっかけは、平安時代初頭に仏教の真言密教と結び付いたことにある。そのための重要な役割を演じたのが真言密教の開祖・空海(弘法大師)だ。

 空海は東寺(教王護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた。その際、秦氏が稲荷山から建造用の木材を提供し協力する。このことがきっかけとなり、お稲荷さん(稲荷神)は東寺の守護神として祀られ、強く結び付くのである。

 その後、お稲荷さん(稲荷神)は仏教的な現世利益の考えを取り入れ、仏教の庶民への浸透とともにその信仰を拡大していくことになったのである。

 稲荷信仰には狐が付き物だ。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしている。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に通力を使い、六ヶ月前に人の死を知り、その肉を食らうという強力な存在であった。

 しかし、仏に降伏させられてからは善神となり、日本では平安時代には、その本体は霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がった。

 これが日本に古くからある狐を田の神の使いとする農民の信仰と結びついて、稲荷神自体を狐だと考えるようにもなったのである。大らかに神仏を習合されっていった日本人の宗教観が、ここにも表れている。




スサノヲ(スサノオ)


◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(一)

2007年02月05日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:58 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(一) 地図はこちら

◆◇◆初午(はつうま)と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社

 二月に入って最初の午の日を初午(又は初午詣り)といい、お稲荷さん(稲荷神)の祭りが行われる(旧暦で行う所も多くある)。本来は、陽射しに春を感じ、ようやく農作業も始まろうという旧暦の二月最初の午の日に行われる。

 この時期は厳冬から春に季節が移り変わり、陽気は一段と盛んになる。生気は躍動し、草木を始め万物が活動を始める時期だったのだ。その陽気が一番盛んになる旧暦二月の午の日が本来の初午の日に当たる(暦の変更は、このように祭りや行事の季節感をなくしてしまった)。

 古来より初午の頃から農家では五穀をはじめさまざまな種を用意して、農作業が始められる。一陽来復と全てのものの蘇り、そして作物の豊饒を願う神事が初午祭なのである。

 もともと農耕の神であったお稲荷さん(稲荷神)は、後に商売繁盛、病気平癒、招福などに御利益があるとされて広く信仰を集めるようになった。

 お稲荷さん(稲荷神)といえば、京都伏見の伏見稲荷大社が総本社である。初午の日をお稲荷さん(稲荷神)の祭りとしたのも、祭神がこの地に降臨したのが二月の初午の日だったからという(『山城国風土記』逸文に記された、和銅四年=七一一年二月初午の日に、稲荷神が稲荷山三ケ峰に鎮座したという由緒による)。

 しかし、学者によっては稲荷が農業に関係する神様なので、農耕に使用する馬、つまり午の日を祭日として選んだという説を唱える人もいる。

 二月初午の由来については他にも、ちょうどこの頃、田の神が山から降りてくると考えられ、田の神を祭る重要な日とされていた。春に山の神が降りてきて田の神となり、秋には山に帰っていくという全国的に存在する民間の信仰と結びついた「山の神迎え」が初午へと定着していったともされている。つまり、初午とは春の農作の豊年を祈る祭りだったのである。

 京都・伏見稲荷大社の初午大祭は、「初午詣」を「福参り」とも呼び、前日の巳の日から伏見稲荷大社は参拝者で埋まる。社頭で参拝者に授与される「験(しるし)の杉」は、平安時代から和歌にも詠まれ、今日もなお商売繁盛・家内安全の験(しるし)として、拝受される習わしが続いている。

 この京都・伏見稲荷大社をはじめ大阪の玉造、愛知県の豊川稲荷、また神戸の摩耶参など、各地の稲荷神社でも盛大に祭りが執り行われる。

 お稲荷さん(稲荷神)の信仰は、農耕を司る倉稲魂神(うがのみたまのかみ~宇迦之御霊神とも表記)を祀って五穀豊穣や福徳を祈願するものだが、キツネを稲荷神の使いとして油揚げを供えたり、初午団子などを作る風習もある。江戸時代には最も盛んな信仰となり、俗に数が多くて目につくものを「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと皮肉ったりもされた。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 『山城国風土記逸文』「伊奈利社」条に「深草の長者・餅の的・白鳥飛翔、稲穂の結実」が稲荷神社(現伏見稲荷大社)の創建と語られている(和銅四年、七一一年と伝承されている)。

 都が山城(京都)へ移り、平安時代に入るとと、稲荷信仰が盛んになり、初午詣の様子は、『大鏡』や『貫之集』(紀貫之)、『枕草子』、『今昔物語』に語られ、当日の稲荷山での賑わいが手に取るように読みとれる。この頃より、稲荷信仰が地方へ伝わり始める。

 それに伴い、初午の日に、稲荷神のご鎮座を讃えて、幸せを得ようとする(農業者は豊作を、商業者は生業繁栄を祈願する)傾向は、徐々に定着していく。また、朝廷よりの奉幣記録も多く伝わり、朝廷が豊作を祈願することは、天下泰平に関わることとして重要な意味を持っていた。こうして初午は、稲荷大神のご鎮座を讃え、その徳に預かろうとする人々の、歴史の長い春の一大行事であったのである。

 全国の稲荷社の総本社、伏見稲荷大社では、初午の二日前の辰の日に稲荷山の杉と椎の枝で作った「青山飾り」をご本殿以下摂末社に飾り、当日には参拝者に「験(しるし)の杉」を授与する習わしがある。




スサノヲ(スサノオ)


◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(二)

2007年02月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 21:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(二)

◆◇◆豆撒き、追儺と豆占と迎春呪術

 今ではかなり簡略化されているが、民間における「豆撒き」は、まず大豆を煎って一升桝に入れ神棚へ供えた後、家長が「鬼は外、福は内」というよく知られる言葉を叫びつつ、部屋の中や出入り口に撒く。このような節分のスタイルになるのは、平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた「追儺(ついな)」(中国から伝わる儀式)に始まる。

 古来からの農耕行事「豆占」と習合して「豆撒き」が全国に広がったのは室町時代頃から、そして今の形になるのは江戸時代だと考えられている。

 豆は鬼の目を打って追い払うと考えられ、桝に残った豆(あるいはまいた豆)を自分の歳の数だけ食べると一年を無病息災に過ごす事ができるとするのが一般的である。

 追儺の行事が入ってくる以前から、日本では農耕の占い「豆占」を行っていた。撒いた豆で一年の気候や吉凶を占う「豆占」(大豆を十二個灰の上に並べ、右から順に一月、二月、三月・・・と決め、豆の焼き具合によって月々の天候を占う年占=としうら)が地方に見られる。

 この他にも、節分に柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿す風習が日本の各地で行われていた。さらに豆撒きには、陰陽道(陰陽五行思想)の迎春呪術としての意味が隠されている(「火剋金」)。このように様々な要素が入り込み、今日の日本式節分の行事が出来たといえよう。

 余談だが、節分の日の横に切らずに棒状のままの巻き寿司を恵方に向かって食べると、幸福になるという言い伝えを広めたのは、海苔の消費拡大のために寿司業者と海苔業者が働きかけたことがきっかけである。

 確かに大正の初めに大阪の花街で、お新香の漬けかかる節分の時期にお新香を巻いた海苔巻を恵方に向かって食べるという風習はあったが、それが太巻き寿司に変わり大手の寿司チェーン店の宣伝を通して全国的に広まったようなのだ。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
 
(※注1) 現在行われている豆撒きを始めとする行事の由来は、諸説はあるが中国の周王朝時代に編まれた「周礼」に則り平安時代に毎年大晦日(一説には二十八日)に行われた追儺(ついな)の儀式が元になっているといわれている。

 「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を追い払う行事に他ならない。当時の「鬼やらい」は十二ヶ月それぞれの疫病神を表す十二匹の鬼に扮した鬼役と、松明を翳してそれを打ち据える役が立ち回りを演じるもので、豆を撒く習慣は無かったようだ。

 また原形はやはり陰陽五行思想を元にした形であったようだ。豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり、これは節分の夜に十二ヶ月に擬えた十二個の大豆を灰の上に並べてその焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていた。

 この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもする。この二つの行事が融合して一説によると鎌倉中期に、または室町初期に民間へ広まり江戸期になって全国的に現在の形に近くなったといわれている。

 江戸中期以降の一般的な江戸での節分は豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿す。主人が神前仏前に灯りを点し、竃を清めて鬼打ち豆を煎って、煎りあがった豆は桝に入れてから三方へ載せてその年の年男に渡され恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち順に家中の部屋すべてへ豆を打つ。

(※注2) 節分の夜などに柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿し、「焼いかがし」という風習が日本の各地で行われていた。「焼っかがし」などとも呼ばれ、語源は「焼き嗅がし」である。

 これは棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるようだ。もともとは、臭気の強いネギやニラ、また煮干しや髪の毛などを火にくべ、虫の口焼きと称し、呪文を唱えたそうである。

 農家では、農薬が普及する前は、田畑の害虫を煙や悪臭で追い払ったのだ。それを害虫の活動がそろそろ始まると考えられた立春の頃に行っていたのである。この日本の伝統と中国の鬼払いの追儺の儀式が混合され、このような節分の行事が成立したと見られている。


スサノヲ(スサノオ)


◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(一)

2007年02月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 08:59 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(一)

◆◇◆節分とは、邪気を払い新しい春を迎える儀式。冬から春への変わり目

 二月の節分(三日あるいは四日)に行われる「豆撒き」の行事は、現在でも神社や寺で広く行われているが、この行事は元々宮中で大祓えの一環として大晦日に行われていた「追儺(ついな)」「鬼儺(おにやらい)」という悪鬼・疫病などの厄払い行事(古くは中国に始まった儀式で、疫病・災害、陰気・寒気を鬼に見立てて追い払います。道教・陰陽五行思想=陰陽道の影響が色濃い儀式です)が元となっており、次第に民間でも行われるようになったものである。

 旧暦(太陰太陽暦)では今の二月が一月であり、遥か昔は立春こそが本来の元旦であった。そして、立春の節分の日は本来の大晦日であったのである。つまり、明日が立春というこの日は一年の終わりであり(年越しの日に当たり)、新たな春を迎えるために家の中の邪気(冬の寒気とも)を払い福を迎えたのである。

 すなわち節分は年迎えの行事でもあるのだ。今でも節分・立春に正月行事を行う例は少なくない。近畿地方では節分を「神の正月」などといい、神だけの正月を行うものとされている所もある。このように、節分の翌日は立春、春が始まる日である。この日には椿(つばき、木へんに春と書きます)の花を飾る。冬の寒気を払い春になったことを示す花とされるからである。

 節分というと二月(和名月名:如月、梅月、木芽月、 初花月、雪消月、麗月など)の立春の前日(雑節の一つ。大寒より十五日目)のことと思われがちであるが、本来は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、一年に四回の季節の変わり目を意味する(昔は「せち分れ」といい季節が変わる節目)。

 特に、一年の区切りとなる立春の前日が特に重視され、ただ節分といえば、二月の立春の前日を指すようになった。旧暦(太陰太陽暦)では「立春正月」といって、この日は年頭もしくは年の暮れに当たる(立春は冬から春への変わり目)。

 古来日本では、季節の変わり目には、鬼に象徴される「厄」が生活の中に入り込み易いと考えられており、これを祓う「追儺式」や「鬼やらい」の儀式が行われた。つまりこれが、「鬼は外、福は内!」の「豆撒き」の風習であり各地の寺社での「鬼追いの節分祭」だったのである。

 その後次第に民衆に広がり、「その昔、鞍馬の奥に人に害を与える鬼がいて、賢者がその鬼の目を三石三斗(六百リットル)の大豆で打ち、退治した」などの説話も生まれるのである。(※1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※1) 節分といえば、立春の前夜、「鬼は外、福は内」と豆を撒く行事をすぐに思い起こす。しかし元来、節分とは二十四節の内、大きく季節の替わりる立春、立夏、立秋、立冬の前日の日(雑節の一つ)を示す言葉で、古く平安時代の『源氏物語』や『枕草子』、また様々な和歌集などでは立夏や立秋の前日をも節分と呼んでいた。

 節分とは関係なく、大晦日の夜、宮中では鬼やらいという行事があった。儺、追儺(おにやらい、ついな)とも表記されたが、殿上人が桃の弓と葦の矢で鬼に扮した者を追い回すという邪気=邪鬼を払う行事で、文武天皇の慶雲二年(七〇五年)頃に日本の起源を求めることができそうだ。

 そこから約百八十年後の宇多天皇の頃には、立春の前夜に豆を撒くという行事に変わったようである。旧暦では、年内に立春が来てしまったり、正月松の内にたいてい立春を迎えるという事情から、いつしか追儺などの行事は立春前夜の節分にということになったと思われる。

 また、節分の鬼や柊(ひいらぎ)と鰯(いわし)は付き物である(棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるそうだ)。この他、節分行事では厄払いの為に大豆やその他の自然の作物がたくさん使われ、自然に感謝しながら家族や隣人の健康と幸せを願う行事といえる。

 紀貫之の『土佐日記』の中に、承平四年(九三四年)土佐の国を出発し都に向う船中、都の元旦を思い起こす件があるが、注連縄、柊とともに鰯ではなく鯔(ぼら)が出てくる。節分追儺と元旦行事がこの時代にはまだ混在していたようである。

 ちなみに、俳句の世界で立春は春、節分は冬の季語となっている。また、この季節に咲く節文草(せつぶんそう) という花があり、これはキンポウゲ科の多年草で早春に咲き出すので、この名がある。山地の樹陰などに群落をなし、地中に球状の塊茎があり、高さ十~二十センチくらいで、二~三月頃になると白色五弁の小花を開く。


スサノヲ(スサノオ)