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◆牛頭からスサノオの古代史、小林よしのりの「わしズムV.5」
◆◇◆わしズムVol.5(幻冬舎)「牛頭(ソシモリ)からスサノオの古代史」
書店である雑誌(ムック)に目が止まった。雑誌(ムック)のタイトルは「わしズム WASCISM Vol.5」(漫画と思想、日本を束ねる知的娯楽本、幻冬舎)。あの「ゴーマニズム宣言」で知られる小林よしのり氏の責任編集による雑誌(ムック)だ。
表紙の特集内容を見てさらに興味をそそられた。まさかとは思ったのですが、なんと、ゴーマニズム宣言EXTRA「牛頭(ソシモリ)からスサノオの古代史」とあった。早速買い求めて読むことにした。
はたしてどんな内容なのか、それ以上に「ゴーマニズム宣言」で、社会問題(差別、宗教、国家、個と公、戦争・・・)を批判を恐れず自身の考えを漫画を通して問題提起してきた小林よしのり氏が、何故日本神話を取り扱おうとしたのか、その中でも何故スサノオを取り上げたのかが気になっのである。当然、スサノオをどのように説明しているかも気になったが・・・。
始まりは、『古事記』に描かれたスサノオ神話のが紹介からである(「海原を治めよ」との命に泣き喚くスサノオ→アマテラスと誓約=ウケヒするスサノオ)。
誓約(ウケヒ)で生まれた宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)を祀る辺津宮(宗像大社)や中津宮(大島)を小林よしのり氏が訪ねる旅へと展開(こうしたスサノオへの関心は、小林よしのり氏の生まれ故郷に牛頸=牛首=うしくびがあったこと、神話と古代史に関する疑問から始まる。小林よしのり氏にとってのルーツとアイデンティティへの確認作業である)。
さらに小林よしのり氏は、日本人とは何か(渡来人とは?、海人とは?、帰化人とは?)、どのようにして日本人は日本人になっていったのかへと疑問と思索が進む。
関心は朝鮮半島と日本列島を自由に航海し交易をしていた海人、その海人を統率した宗像大社を祀る豪族・宗像君の祖先「胸肩君」と、古代の海路「道中(海北道中)」への関心へ向かう。
古代の海路「道中(海北道中)」のはるか太古に、小林よしのり氏は日本の創世の風景を思い浮かべるのである(タミル人の渡来と日本語の基礎=ヤマトコトバの成立、稲作・金属器・機織などの文明の伝来など)。
再度小林よしのり氏は、日本と日本人とは何かを探るため、牛頭とスサノオへの疑問へ戻る。
牛頭と朝鮮半島のソシモリ(新羅国の曽尸茂梨)、牛頭天王と祇園社の祭神、牛頭天王とスサノオ(須佐之男命・素盞鳴尊)、ソシモリと巨木信仰(御柱祭り)、『日本書紀』のスサノオの記述の真偽?、スサノオと紀氏(紀の国)と海人、スサノオの民間信仰と伝承、などへと時を越えて思索は深まる。
一つの地名にしても、一つの神名にしても、そこには数百年~二千年以上の様々な経過を辿った歴史と繋がり今日にあるわけだ。
また、話は高天原で乱暴狼藉をはたらくスサノオに戻り、さらにスサノオの源流を求める。根の国と海上他界、スサノオは紀伊の海人の信奉する神(海上他界のマレビト神)、水沼氏の奉祭する神など。
旅は中津宮(大島)へ、思いは沖ノ島の古代祭祀へと、脳裏に古代の歴史が甦える。小林よしのり氏は、大島の中津宮の杜(もり)で、スサノオの源流を追う思索の旅の中で、遥か昔の日本と日本人(風土と精神)に思いを巡らす。「日本と日本人はどのようにして、日本と日本人となったのか」と・・・。
このスサノオという神は、渡来の韓鍛冶部の神、出雲の須佐郷の地方神、荒れすさぶる神の神格、アマテラスの対立概念としての神などいろいろな解釈があるが、『記・紀』神話のスサノオの神格が誕生してくるまでにはもっと様々な変遷と経緯を通して出来上がってきたのだ。
それは、日本と日本人が形成される歴史とも深く関わる長い時間なのである。
是非、一読をお勧めする。
スサノヲ(スサノオ)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王
スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。
同体化は、八坂神社創建(※注1)の時点に遡りる(もしかすると、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのである。
八坂の地では、古くから八坂氏(※注1)が農耕守護の「天神」(雷神)を祀っていた(古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした)。
しかし、平安京の成立により人口の急増をみて疫病流行などの恐れが多くなり、そこで、それを防ぎ除くために、貞観十一年頃、牛頭天王(素戔鳴尊神)が播磨の広峯社(現姫路市内)(※注2)からいったん北白川(東天王社)へ勧請し、それから間もなく(貞観十八年)、南都の僧(一説によると、常住寺十禅師)円如が八坂の現在地に堂宇を建て、そこへ牛頭天王(素戔嗚尊神)を移し祀ったとされている。
八坂神社は社名も幾度も変わり、その実体を捉えるのは困難だ。雨乞いなどの天神信仰、疫病祓い、怨霊鎮めの御霊会、修験道や陰陽道などあらゆる信仰が混淆していくうちに、名に負う祇園精舎の守護神・牛頭天王(※注3)が主祭神になっていったものと思われる。
(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。
八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。
このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。
(※注2) 正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようだ。それが広峯社(現姫路市内)であったようである。
さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。
(※注3) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。
その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。
スサノヲ(スサノオ)