この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(三)
◆◇◆節句とは、移り変わる日本の季節を楽しむ繊細な感性
古来より、日本人にとって節句とは、移り変わる日本の季節の節目、節目を感じ取り、心豊かに暮らせることを楽しみ祝う、昔ながらの記念日であった。春夏秋冬と季節が美しく移り行く日本では、気候の変り目の祝祭日のことを節日(せちび・せつび)といい、お供え物をしたり行事をおこなって祝ってきたという歴史がある。この節日の供物、「節供(せちく)」という言葉が、節日そのものを指すようになって「節句」という言葉になったともいう。
◇五節句というように、現在にも五つの節句が伝えられている。
1月7日、七草粥で新年を祝う「人日(じんじつ)の節句」
3月3日、雛祭りとして有名な「上巳(じょうみ・じょうし)の節句」
5月5日、男の子の成長を祝う、こどもの日「端午(たんご)の節句」
7月7日、織姫、彦星の物語で有名な「七夕(たなばた)の節句」
9月9日、菊花の香りの酒で月をめでる「重陽(ちょうよう)の節句」
それぞれの節句は、宗教行事として、地域の祭りとして、また子供たちの成長を祝う祝日として、様々な形で私たちの暮らしの中にいきづいてきた。節句とは、日本という風土の中で、季節の移り変わりを感じ取り、それを楽しむ記念の日として、日本人が持ちえた繊細で豊かな感性だったのだ。
これらは古来、宮中の行事であったり、中国から伝わった伝説であったりしたものだ。それが長い歴史を経るうちに、地域の暮らしや風土にあったものへと姿を変えながら、現代の私たちに季節感を伝えてくれたり、暮らしのワンシーンを和やかなものにしてくれたりするのである。
スサノヲ(スサノオ)

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(二)
◆◇◆京都の七夕行事、相撲節会(すまいのせちえ)
かつての宮中では雅びやかに七夕の行事が行われた京都では、仙台の七夕に代表されるような華やかな七夕祭りはみられない。七月の京都といえば、日本三大祭りとして名高い祇園祭一色に染まってしまうからかもしれない。平安時代までは、相撲も七夕の行事だった。
かつて宮中では毎年七月にいわゆる天覧相撲である相撲節会(すまいのせちえ)が行われていた。もとは七月七日であったものが、天長三年(八二四)には七月十六日に、やがて七月二十五日にと日にちが移り変わり、やがて源平争乱の中で途絶えていったということで、残念ながら現代には伝わっていない。
◆◇◆京都の七夕行事、乞巧奠(きこうでん)
中国から伝わった宮中の行事に、乞巧奠(きこうでん)がある。京都では、いまも公家の流れをくむ冷泉家で受け継がれている。旧暦七月七日というと、現在では八月の末ごろ、冷泉家では七夕の歌会、乞巧奠(きこうでん)が執り行われる。供え物をして牽牛・織女を祀り、芸事の上達を祈るとともに、管弦の奏楽、冷泉流による和歌の朗詠が行われ、天の川に見立てた白い布をはさんで七夕の歌を贈答する古式ゆかしい行事が行われる。
◆◇◆京都の七夕行事、貴船神社・七夕祭、貴船の水まつり
生きとし生けるもの皆に、無限の潤いと活力を与える「水」に感謝し、水にゆかり深いお茶を点てて献じ、日常の料理(鯉・鯛)を古伝流によって包丁を入れ、祈願と感謝をあらわす。神と人が一体となった貴船の里に繰り広がる祭典である。
◆◇◆京都の七夕行事、御手洗祭(みたらしまつり)
菅原道真公ゆかりの京都、北野天満宮では、道真が七夕に歌を詠んだことにちなんで、この日は文芸上達を願う祭りとされています。神前には道真遺愛の硯・水差し・角盥(つのだらい)を並べ、その左右には短冊代わりの梶の葉、なす、きゅうり、みたらし団子などを供えて祭りを行います。御手洗祭というのは、御手洗池に手足をつけて穢れを祓う、昔の節句の行事に由来しているようです。
◆◇◆京都の七夕行事、七夕立花会(たなばたりっかえ)
桃の節句、菊の節句というように、季節の移り変わりをめでる節句の行事は花と深くかかわっていた。なかでも七夕には、牽牛・織女へ花を供えることから、これが生け花の発展につながってきたともいわれる。室町幕府の時代には、七夕法楽として将軍家や公家の間で花合せがさかんに催されるようになった。年中行事化した生け花は、その後も広く普及をつづけたのである。今でも多くの華道では、七夕の花は特別な意味をもっている。
◆◇◆京都の七夕行事、地主(じしゅ)神社で恋愛成就の祭典
七夕伝説は、天の牽牛・織女が年に一度会うことができる恋の物語だ。この説話にちなんで京都、東山の地主(じしゅ)神社では、この日恋愛成就の祭典がおこなわれる。七夕笹に互いの名前を記した一対のこけしを吊るして奉納すると、思いが叶うのだそうである。
スサノヲ(スサノオ)

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(一)
◆◇◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来と行事
七夕(七夕の節句)は、「笹のはさらさら・・・」と歌われ、各地でさまざまな祭りや行事が行われる夏の風物詩で、桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句の一つである。今日では、七月七日の夜の星祭りとして定着した。
七夕(たなばた)といえば、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮ぶ。また、牽牛と織女が年に一度逢瀬をはたす物語は誰もが知っている。
七月七日(旧暦も含む)には、日本の各地でさまざまな祭りや行事が行われるが(新暦の「平塚の七夕」、月遅れの「仙台七夕」など)、時期は、新暦・旧暦・月遅れと地方によって異なっているようだ。
天の川をはさんできらめく牽牛星・織女星の物語は、いまから二千年前にはすでに中国で成立していた伝説だといわれている。機織りに励んだ天上の織女にちなんで、星に技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」(女性達がこの日、七本の針に糸を通して捧げものし、織姫に針仕事の上達を祈る)という宮中行事が生まれ、日本へ伝わったとされている。
こうして七月七日の行事である七夕(乞巧奠)は、日本では奈良時代に宮中の行事として執り行われるようになった。民間に広まったのは室町時代以降といわれる。
もっとも、乞巧奠の伝来以前の日本にも、七月七日に古い民間信仰と結びついた行事があったといわれている。折口信夫によると、日本には棚機女(たなばたつめ)という巫女が、水辺で神の降臨を待つという農村の「禊ぎ(みそぎ)」の行事があったそうでだ。
その両者が習合・混淆したのが日本の七夕で、「七夕」と「タナバタ」と読むのも「棚機女(たなばたつめ)」からきているという。両者が習合・混淆・合体したのも、日本の棚機女の伝説(天から降り立つ神のために美しい衣を織る織女)と、中国の織女の伝説(機織りに励んだ天上の織女)に共通し重なるものがあったからだろう。
江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がる。この頃、「習字の上達を祈願して」笹に願いを書いた短冊をつけて飾る風習が生まれたようだ。また、乞巧奠の流れを汲む七夕は、江戸時代に定められた五つの節供(1/7七草(人日)の節句、3/3桃(上巳)の節供、5/5端午の節供、7/7七夕の節句、9/9重陽の節供)のうちの一つとして定着し、武家・町人の社会に広がった。
一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事としての要素が加わる。日本古来の伝承(棚機女=たなばたつめの伝説)や風習(穢れを祓う行事)と、中国の行事(乞巧奠)がうまく混ぜ合わさったからこそ、七夕はいまでも日本の各地にさまざまな形で、大切に伝えられているのかもしれない。
スサノヲ(スサノオ)