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◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)

2006年07月28日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の歴史

 天満宮御鎮座の翌々年、天暦五年(九五一年)に社頭の浜から神鉾を流し、流れついた浜に斎場を設け、疫病のはやる夏を無事過ごせるように「禊(みそぎ)」を行なった。その際、神領民や崇敬者がこぞって船を仕立ててお迎えしたのが天神祭の始まりとされている。その後、幾多の変遷を経て、それ以来、船の数も増え、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃には、今日のような船渡御の形が整ってく。
 堂島川への土砂流入で船渡御が中止になったこともあるがが、天下の台所(※注1)と呼ばれた元禄時代(十七世紀後半)(※注2)以降、天神祭は浪速の繁栄のシンボルとして隆盛をきわめ、享保年間(十八世紀前半)には「講」という祭りを支える組織が誕生し、新たにお迎え人形も登場し、祭りの豪華さは全国に名を馳せるようになった(元禄以後は、商人の町大坂の繁栄とともにますます隆盛を極めたという)。天神祭は、一千余年の歴史を誇る日本を代表する祭りである。

 幕末の政変や二度の世界大戦で中断があったものの、昭和二十四年に船渡御が復活。また、地盤沈下の影響で大川を遡航するという現在の形になったのは昭和二十八年からのことである。天神祭には幾多の変遷があり、その存続が危ぶまれた時期もあった(※注3)。しかしその度に困難を打開し、伝統を守り、盛り上げていったのは浪速っ子の土性骨と心意気である。天神祭は今も、そうした人々の熱いエネルギーに支えられ発展していった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天神祭が行われる大川は江戸時代には「出船千艘・入船千艘」 といわれ各藩の蔵屋敷がずらっと建ち並んでいたところである。また天満橋と天神橋の間には青物市場、堂島には米市場、雑喉場(ざこば)には魚市場があってたいそう賑わっていた。水を守り自然を大切にしながら、そこに神様をお迎えするというのが天神祭の基本である。

(※注2)天神祭の宵宮祭と本宮祭の両日、各町内の神輿や子供神輿がにぎやかに宮入りする。江戸時代には、二十四日の宵宮に氏地内の地車(だんじり)がクジで決めた順番通りに華やかに宮入りするのが、二十五日の船渡御と並ぶもう一つの天神祭のハイライトであった。最盛時には、七十台を越える地車が繰り出したという。今、ただ一台残る地車は、嘉永五年(一八五二年)製の「三ッ屋根地車」である。

 また、江戸時代には、各町の町人たちが「お迎え人形」を街角に飾った。人形は身長約二・四メートル、船渡御の際には人形船の舳先に立てて御神霊をお迎えしたことから、「お迎え人形」と呼ばれた。金糸・銀糸で縫いとった美しい衣裳・贅沢の限りを尽くした小道具など、それはもう豪華絢爛そのものである。

 当時は五十体ほどあったが、今は十七体が残るだけで、うち十四体が大阪府の民俗文化財に指定され、十六体が大阪天満宮に保管されている。天神祭の両日、そのうちの数体が境内に展示される。

(※注3)千余年の歴史ある大阪天満宮の天神祭は、厳粛な神事として古式の伝統を由緒正しく守りながらも、その時代時代の社会情勢にダイナミックに反応して今日に受け継がれてきた(天神祭は浪速っ子に支えられて続けられてきた)。

 しかし、昭和二十四年に船渡御が復活した後も、戦後二回ほど中止になったことがある。一回目は昭和三十三~三十四年のスターリン暴落で大阪の経済が落ち込んだ時だ。二回目は昭和四十九年の石油ショックの時である。


スサノヲ(スサノオ)


◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)

2006年07月28日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(1)

 祇園祭(祗園御霊会)が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観十一年(八六九年)だ。しかし、「祇園神」が鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡る。記録の上では詳らかでないが、斉明天皇二年(六五六)高句麗の使、伊利之使主(いりしおみ)が来朝したときと伝えられている。

 伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによる。すなわち、高句麗より渡来した人々が住みついて、スサノヲ命(素戔嗚尊)を祀ったとされている。また八坂氏は古くから八坂の地で、農耕神として「天神」(雷神)も祀っていた。

 平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行した(むかしは、疫病の流行は大災害でした)。京の人々は恐怖し、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭(えきしんさい)」「御霊会(ごりょうえ)」が頻繁に行われた。

 都の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした。

 貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。

 そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。

 『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王と武塔神が、スサノヲ命(素戔嗚尊)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。

 祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡ります。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難だ。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうである)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。


スサノヲ(スサノオ)


◆カミと自然への限りなき畏敬、日本人の信仰の原点

2006年07月27日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 18:00 Comments( 0 ) スサノヲ(スサノオ)の日本学



◆カミと自然への限りなき畏敬、日本人の信仰の原点

 太古より自然は、人智の及ばない大いなる存在であった。雨風や日照をコントロールすることなど、所詮人間にはできないものであった。

 人間は、それでも自然を征服すべく戦い続けるか、それともうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結ぶしかできなかった。

 豊かな森と水に恵まれた日本列島の日本人は、うまく折り合いをつけ自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだのである。

 自然は、無限の恵みを与えてくれると同時に、自然は一瞬のうちにすべてのものを奪い去ってしまう。

 そこで人々は、自然の織り成す森羅万象を「カミ」と呼び、豊作や大漁の豊穣をもたらしてくれた「カミ」をもてなし讃え、荒ぶる「カミ」を畏れ鎮めた。

 人は、太古より自然共に生き、「カミ」と共にあったのだ。


スサノヲ (スサノオ)


◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

2006年07月27日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、星合七夕祭と星辰信仰

 天神祭の神事は七月七日の星合(ほしあい)七夕祭から始まりる。七夕というと夜空の牽牛(鷲座のアルタイル)と織女(琴座のヴェガ)でる。大阪天満宮は今から千五十年程前(九四九年)にこの地(北区天神橋)にご鎮座した。鎮座の由来によりますと「星合(ほしあい)の池(※注1)(※注2)(※注3)に松樹(しょうじゅ)あり、松樹に霊光を見る」とあるが、これは平安の頃の星辰(せいしん)信仰のようでる。

 昔の星辰信仰(星に神秘的な霊力を託して尊崇する信仰)というのは、空に輝く星に対する信仰ではなくて、水に映る星に対する信仰であったと考えられている。そういうことから、古い文献にも大阪天満宮の星合(ほしあい)池で昔から星合七夕祭が行われていたことが記されていた。

 七夕祭が行われる七月七日に、全講社の講元が本殿に参拝して神事が行われ、七月二十四日に宵宮、二十五日に夏大祭のクライマックスを迎える本宮の天神祭が始まる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天暦二年(九四九)天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったとの伝承がある。また、天正二年(一五七四年)の『石山軍記』に「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」と記録されている。星合の池は、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。

 なお、付近に七夕池、明星池、夫婦池等が明治年間まで現存していたそうだ。昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、付近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光席、吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めてにぎやかな所であった。

(※注2)かつて天満には「明星池」「七夕池」「星合池」という星にちなむ三つの池があり、天満三池という。現在の星合池(亀の池)は、古い資料によると「はす池」「長池」「亀池」などと呼ばれていた。

 昔の「星合池」は大阪天満宮の北門を出て国道一号線に出た左側付近である。「七夕池」堀河小学校の片隅に跡地がある。「明神池」も今はガレージになっている。このかつての天満三池に映る星が信仰の対象になっていたようだ。疫病への対処を星に祈る星辰信仰である。

 そういう由来のある池なので、池が消えていっても残った池を星合池と呼ぶようになったのであろう。この星辰信仰と、もともと天満の地に祀られていた大将軍社、菅原道真公の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて大阪天満宮の天神信仰になったようだ。星合池は、ロマンチックというよりも昔の人々の切なる願いをかけた池であり、名前だったのである。

(※注3)星合の池:大阪天満宮の境内の北側にある小さな池のことだ。池には「星合橋」という小さな橋がかかっていたり、「星合茶屋」という名の茶店がある。江戸時代の資料を見ると、星合の池の少し北には「明星池」という池もあったが、こちらは明治時代に無くなっている。

 江戸時代の文献『摂津名所図会大成』によると、その昔天満宮に神様が鎮座した最初の夜に、大きな松の樹が生え、その梢に明星が降臨し、星の光が池の水に光り輝いたということから「明星の池」と名づけられたとされている。現在も残っている星合の池の方の由来は伝わっていないようだが、池の前にある由来書には先の明星池の伝説が、星合池のそれとして紹介されている。しかし、江戸時代には既に二つの池が混同されていたようなので、そこから来た誤解と思われる。


スサノヲ(スサノオ)


◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)

2006年07月27日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、久世駒形稚児の綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見している。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになった。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞鳴尊)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀っている。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神・大直日神・神直日神 で、国中宮がスサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)だ。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされている。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉します。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)


スサノヲ(スサノオ)