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◆メッセージ1
「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。
私は専門的に学んだわけではありませんが、こうしたことに興味を持っています。まだまだ知らないこともたくさんあり、皆さんから多くのことを教えていただきたいと思っています。
今の多くの人が、あまりにも日本の文化や歴史のことを知らな過ぎ、外からの情報に翻弄され刹那的に行動しています。このような拠り所を失い根無し草のように漂う様を見ていると、しっかりと自分たちのアイデンティティを見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を自覚することが必要だと感じるようになりました。
国際化が叫ばれていますが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。
特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界に興味を持っています。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶です。
私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。その何かとは・・・。
この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。
このような、古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学びたいと思っています。
コメントをお願いします。
スサノヲ(スサノオ)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭
豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。
実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。
祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。
七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。
ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。
(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。
このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。
初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。
(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。
この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。
十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。
稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。
十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。
スサノヲ(スサノオ)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(五)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、山鉾巡行は各鉾町の町衆の祭り八坂神社の神事は、神幸祭と還幸祭
祗園祭といえば、だれしもが四条通りが歩行者天国となり、街角を埋めつくす人たちでごったがえす宵山のどよめきと、総数三十二基の山鉾が都大路を練り歩く、豪華絢爛な山鉾巡行を思い出す。
また山鉾をきらびやかに飾る、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織なども、見る者たちを魅了する。祭りの表舞台に登場する山鉾(※注1)や世界の芸術品は、祭りを豪華に、また華やかに飾っている(山鉾風流)(※注2)。
豪華絢爛な山鉾巡行が祇園祭と思っている人たちは、祇園祭は七月一日の吉符入りから、二十九日の神事済奉告祭まで(三十一日の疫神社・夏越祭)、約一ヵ月にわたって行なわれる祭礼であり、またこの祭りはもともと、都に疫病をもたらす荒ぶる霊魂を慰撫することを目的とした、いわゆる「御霊会」であることを知る人は少ないと思う。
元々、この祗園祭は「祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)」(※注3)と呼ばれ、昔疫病が流行したりすると、それを起こすと思われてた疫神や御霊の退散を祈願して、祗園社(今の八坂神社)の神輿を担ぎ出し、二条の神泉苑まで練り歩いて、疫神退散の「御霊会」をしたのが始りだそうである。
ちなみにこの神輿を担ぎ出しのは、祗園社だけではなく、今宮神社でも疫病が流行ると神輿を出し、近く船岡山で「御霊会」をしたそうだ。地名から「紫野御霊会」と呼ばれていた。
(※注1) 祭りを厳かに演出するため、鎌型の鉾が朝廷より下された。これはやがて「馬上十二鉾」と呼ばれ、ひとつ数を増した鉾十三基と神馬五頭の姿に整う。鎌倉時代を通じて祇園祭は、三基の御輿と、「馬長」「渡物」「馬上十二鉾」などの行列が「御旅所」に渡御するという形をとり続けたようである(神輿渡御)。
鎌倉時代から室町時代の頃、庶民がこの「馬上十二鉾」を真似し始めた。彼らは奇抜な装いで練り歩いたり舞い踊ったりして、人気を集めたが、時代は南北朝の混乱期に入る。この間は、祭りの興奮が暴動に変わることを恐れた幕府の圧力により、祭りは淋しいものになってしまったようである。
また、貴族勢力の衰退により「馬長」などは姿を消した。しかし、祭りの主役が庶民へと変わり「鉾衆」は恒例化し、祇園祭の新しい形として定着していく。また同じ頃、伝説や物語のさまざまな情景や場面を再現した「作り山」も登場していく。そしてこの「鉾衆」と「作り山」が、現在の「山鉾」のルーツになるのである。
(※注2) 山鉾風流は、室町時代になって、当初からあった神輿渡御を中心とする神事に新たに追加された行事であった。その成立の背景については、京都の商工業に従事する都市民の成熟があったことが指摘されている。
すなわち、いわゆる「町衆」といわれるそうした都市民の自治的な動向の中で、その自主的な祭礼として山鉾が成立したというのである。
(※注3) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えた。
そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行う。その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。
やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。
スサノヲ(スサノオ)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(四)
◆◇◆京都祇園祭、豪華絢爛な一大ページェント
「祇園祭」は、七月一日の「吉符入り」にはじまり、三十一日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる。
祭りのハイライトは十七日に行われる三十二基の山鉾巡行。これらの山鉾のうち二十九基は重要無形民族文化財に指定されている。
巡行は午前九時、四条烏丸から長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に河原町通を経て御池通へ向う。 途中、「注連縄(しめなわ)切り」「くじ改め」や豪快な辻廻しなどで見せ場を作り、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられる。
◆◇◆祇園祭の行事/日時 行事の内容(7月1日~ 31日)
1日~5日 吉符入:神事始の意味で各山鉾町において、町内関係者が本年の祇園祭に関する打ち合わせをする。
2日 くじ取式:17日の山鉾巡行の順番をくじによって決める式。その後、各山鉾町代表者が八坂神社に参拝し、祭礼の無事を祈願する。
10日 お迎え提灯:午後4時半~午後9時 午後4時半頃から神輿を迎えるため、趣向を凝らした各種の提灯を持って行列。
10日 神輿洗:午後8時 午後8時頃、神輿の3基のうち中御座の神輿をかつぎだし、四条大橋まで運び、鴨川の水で洗い清める。
10日~14日 鉾建・山建:各山鉾町では、巡行の山鉾が収蔵庫から出されて組み立てられる。
13日 稚児社参:午前11時 長刀鉾にのる稚児が、午前11時、八坂神社へ参り「お位」をもらう。
14日~16日 宵山(祇園囃子):どの山鉾も夜は提灯が幾十となく点灯され、祇園囃子がにぎやかに奏でられる。 また屏風飾りといって町内の家で、部屋に飾られた屏風等を見学することができるところもあります。
17日 山鉾巡行:午前9時 午前9時に四条烏丸を、32の山と鉾が出発します。
17日 神幸祭:午後4時 3基の神輿が午後4時頃から氏子町内を巡行して、四条御旅所にとどまる。
20日~22日 狂言奉納:八坂神社の能舞台で、午前10時、12時、午後6時、8時の1日4回、狂言の奉納が行われます。
24日 花傘巡行:午前10時 「後のまつり」の巡行が17日の山鉾巡行と合併したため、山鉾の古い形態を再現するねらいではじめられたもので、花傘の10余基をはじめ京都花街のきれいどころの踊り、鷺舞、六斎念仏、子供御輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列が続く。
24日 還幸祭:3基の神輿が午後5時頃四条の御旅所を出て、氏子町内をまわり、午後10時ごろ神社へ帰る。
28日 神輿洗:10日の神輿洗と同様、四条鴨川で洗い清め、午後8時ごろ神社へ帰る。
29日 神事済奉告祭(八坂神社):祇園祭の無事終了を報告し神恩に感謝。
31日 疫神社・夏越祭(八坂神 社内・疫神社):鳥居に茅の輪を設け、参拝者がこれをくぐって疫病を祓う。
スサノヲ(スサノオ)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(三)
◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、豪華絢爛な山鉾巡行による「祇園祭」
保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていく。
また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程である。(※注1)
「祇園祭」が、今みられるような形(山鉾巡行や山鉾風流など)(※注2)になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易が盛んになり、町衆の繁栄により、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織などが競って用いられるようになってからのことである(※注2)(※注3)。
このように、「祇園祭」は、千百年以上の伝統を誇り、京都の歴史とともに歩んできたともいえる。最近、市内中心部にある山鉾町の人口減少など悩みはあるが、昭和五十六年に蟷螂山、六十三年に四条傘鉾が再興されるなど祭りはますます賑やかになってきている。
(※注1) もともと「山・鉾」は、「祇園御霊会」の神輿渡御に付随した出し物であり、いうならば神輿の先導役というべきパレードであった。しかしやがて華やかな「山鉾」や「風流拍子物(ふりゅうはやしもの)(鉦・笛・太鼓などにあわせて踊る一種のにぎやかな歌舞)」は神輿以上に見物人たちの注目を集めるようになり、ますます華美になっていく。
「風流(ふりゅう)」とは、本来見る者たちを喜ばせ、あっと驚かせるような存在であったから、時とともに巨大化したり華美に変身してゆくのは当然のことでもある。
また本来は厳粛な神事としての神輿渡御の先触れとしてのパレードであったものが、やがて独立し、十四世紀後半には神輿が出なくても鉾や山の巡行だけは行われるという事態になっていったようだ。
その背景には、京都下京を中心とした町衆の成長と財力があったことはいうまでもない。「祇園社」の神事から独立した、町衆中心の「祇園祭」のルーツをここに見ることがでる。
(※注2) 十四世紀の南北朝時代に発生したと考えられる「山鉾」は、室町時代になると益々目立つ存在となり、一定の形式を具えるようになっていく。それは「鉾」・「山」・「傘」・「船」という多彩な形式である。現在の「祇園祭」に登場する三十二基の山鉾のうち、「傘鉾」は二基(綾傘鉾と四条傘鉾)、「船」は「船鉾」として残っている。
これらの原型は十五世紀のはじめ頃には完成していたのだ。そして「山鉾」はさらに巨大化し贅をつくした装いを纏いながら発展していきた。応仁の乱以前の山鉾を記した史料には、何と五十八基の山鉾の名が記されている。
その中のほとんどが「長刀ほこ(長刀鉾)」や「庭とりほこ(鶏鉾)」など、今日の山鉾と同じ名称が付けられており、今から約五百五十年前にはすでに今日の「祇園祭」と大して変わらぬ山鉾が都大路を巡行していたことが窺える。
(※注3) 江戸時代に何度か火災にみまわれた「山鉾」であるが、その都度構造的に脆い部分に改良が加えられ、強固な構造をもったものに変化し、組み建ての技術も向上していく。
そして文化文政期(十九世紀前半)、古代から近世にかけて大変化をとげた祇園祭と山鉾は、現在のような形態に完成された。それからの祇園祭は、豪華な「山鉾巡行」をハイライトとする、町衆の力なしには行えない祭りとして今日に続いている。
スサノヲ(スサノオ)