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◆陰陽五行説と陰陽道、日本の年中行事(二)

2007年01月27日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 21:34 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆陰陽五行説と陰陽道、日本の年中行事(二)

◆◇◆日本の年中行事に深く浸透した、陰陽五行思想と陰陽道

 陰陽五行思想(中国の古代思想、道教系の学術の一つ)のような世界を読み解くような精緻な原理思考は、それまでの日本には存在しなかった。そこで、朝廷はこの道教的要素の陰陽五行系学術(天文観測術・卜筮・遁甲・造暦法など)を利用して、神々の分類や性格付け、皇都の選定や宮廷祭祀の日取り、災異瑞祥を読み取りなどを行うようになる。

 こうした専門的なことは陰陽道(中国の民間信仰・道教が日本に伝わり生まれたのが陰陽道である)の陰陽師が受け持つようになった。しかしそれ以上に日本文化に対するこの思想の影響の大きさや重要性がは計り知れないものがある。

 それは陰陽五行思想という世界原理によって、日本文化のあらゆるものが再構築され、新たに意味付けられたことにあったのである(古代日本の精神世界の基本原理に広く関わっている)。

 陰陽五行思想の日本への導入は、宮廷祭祀や儀礼などに大きな影響を与えが、神道においても、古来の神々を五行に分類して、『記・紀』神話の中に整合的な宇宙発生論を持ち込み、古くからの神祭りでさえも陰陽五行思想に合わせて再構築することで、それらを宇宙の秩序と神々の世界を合致させようとする。

 『記・紀』神話の「国生み」とそれにともない登場する神々には、支配と被支配という『記・紀』編纂時の政治的な意図が色濃く反映しているとされるが(神々のヒエラルキーとしての天津神と国津神)、その理念を思想的に支えているのは、多分に陰陽五行思想や陰陽道が持つ概念と考えられる。

 すると、日本人の宇宙創世の概念も、古代における神の認識も、この陰陽五行思想や陰陽道をぬきにして考えることが出来ないと思われる。

 神を気配として認識してきた日本人にとって、陰陽五行思想や陰陽道はその認識をより具体的に、より論理的に顕在化してきたともいえる(古代日本の宗教概念に及ばした陰陽五行説と陰陽道の影響は計り知れないものがる)。

 またその他にも、陰陽五行思想は、日本文化のあらゆるものに対して深く浸透して行き、日本という土壌に完璧に近い形で、日本文化の血肉と化して行くのである(普段はまったく意識しないが)。

 年中行事(本来、宮中で一年の内に一定の期間に慣例として行われるようになった儀式がもとで、それが武家や民間に流されて今日の形態をとるようになったとされる。そのルーツは古代中国の行事に遡ることが出来る)は、時代と共に変化を重ねてきたが、民間陰陽師系(祝言職人・芸人など)の働きにより、年中行事は民間に広まることとなる。

 例えば、正月行事の四方拝・恵方詣・屠蘇・書き初め・七草粥・どんど焼き・左義長など、陰陽道の重要な祭りである節分(宮中行事の追儺式が起源)、雛祭り(本来禊ぎ祓いの儀式)、端午の節句(当初は成人のための邪気祓い・厄病避けの祭り)、七夕(星辰信仰から生まれた祭り)、重陽の節句(延命長寿を祝う)、亥の子(玄亥、亥の日に餅を食べると無病になるという)、大祓え(禊ぎも民間道教のが起源とする説もある)、虫送り、御中元、七五三など、陰陽五行思想と陰陽道(予祝、禁厭、祓除、厄除け、延命招福の呪法)の関わりの深い年中行事がほとんどである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注) 私たちの祖先は陰陽五行思想を使って、多くの祭り・年中行事を精密に作り上げ、災害の多い日本列島上の暮らしを無事に過ごす呪術としてきました。その他、正月の門松(その形は何を意味するのか?)・節分の豆(なぜ節分に豆をまくのか?)・土用丑の鰻(なぜウナギを食べるのか?)・冬至にカボチャ(冬至にカボチャを食べ柚子湯に入るのはなぜなのか?)・河童(なぜカッパの姿があのようなのか?)・地震の鯰(なぜ地震を起こすのがナマズなのか?)・お伽話の桃太郎(なぜ桃太郎のお供は猿・犬・雉なのか? キビダンゴが意味するものはなんなのか?)なども、この陰陽五行説の影響から生まれたものである。このように、陰陽五行説は私たちの生活や文化に自然に溶け込んでいる。


スサノヲ(スサノオ)


◆陰陽五行説と陰陽道、日本の年中行事(一)

2007年01月23日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:14 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆陰陽五行説と陰陽道、日本の年中行事(一)

◆◇◆日本のあらゆる文化に深く浸透した陰陽五行思想と陰陽道

 日本には年中行事(宮中で一年のうち特定の時期に、慣例として行われた儀式がもとになり、それが武士や民間の間に流布して今日の形態になる)として、お正月の祝に始まって大晦日の行事まで本当に数多くの行事をする。

 だが、私たちはその歳時の起源とか意味を考える事なく、昔から伝承されているからとしてあまり意識をしない。

 しかし、現代に伝わる様々な年中行事には、陰陽五行思想がこうした年中行事や伝統文化(田楽・狂言・能・猿楽・幸若舞・歌舞伎・相撲・華道・茶道など)に対して大きな影響を与えている(日本文化のあらゆるレベルに浸透し、祭り・行事・習俗などに多大な影響を与えている)。(※注1)

 陰陽五行思想とは、宇宙を形成する原理(陰陽の二元的原理)と万物を貫く普遍的記号(木・火・土・金・水の五行=五気)によって世界を説明しようとする思想である(宇宙の森羅万象を陰陽の二元的原理と五つの要素に分類して解釈する思想)。

 言い換えると、世界を原理的・構造的に把握し、その原理に基づいて包括的に世界を読み解く体系ともいえる。この思想は六世紀の中頃、中国より伝来した仏教に前後して移入された。

 つまり、様々な日本の年中行事の由来が、陰陽五行思想から読み解くことができるのである(私たちが純粋に仏教行事・神道行事として行っている行事の中に、この陰陽五行思想が奥深く浸透して、日本の祭事となって伝承されている)。(※注2)

 また、陰陽五行思想、特に陰陽道(陰陽五行説に基づいて森羅万象の背後に秘められた世界の意味と働きを解読し、人事百般の指針を得ることを目的とした思想と技術の全体をいう)が日本の歴史に与えた影響は非常に大きなものがあった(古代・中世・近世・近代の大きな事件には常に陰陽道の影が見え隠れする。また神道や教派神道に与えた影響は相当に大きなものがあった。日本列島に住む人々が陰陽五行説をすんなり受け入れた背景には、それがある種のアニミズム的世界観だったからである)。(※注3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 陰陽道(古代中国の陰陽五行説の思想に基づいて、天文・暦法・占術などの学問的なものから天人相関思想による祥瑞災異など読み解く思想であり、日本において体系化された呪術・祭祀に至るまでを包括したもの)の影響を受けた年中行事は非常に多く、次のような行事がある。

 元旦の四方拝・恵方詣・書き初め・凧上げ・羽根突き・屠蘇・七草・どんど焼き・節分の追難式・雛祭り・虫送り・端午の節句・夏越しの祓・御中元・重陽の節句・七五三・大祓など。これらは、いずれも陰陽道の予祝・禁厭・祓除・厄除け・延命招福の呪法と関係する。

(※注2) 陰陽五行思想とは、陰陽説と五行説という二つの哲学的な思想が合体したものである。陰陽説は、「易」に由来する宇宙生成論の一種で、万物を能動的・昂進的状態である「陽」と受動的・沈静的状態である「陰」の二つに大別し、それらが和合・循環することで万物の生成・消滅といった変化が発生するとする考えである(宇宙の原初は天地・陰陽が分かれていない混沌とした状態=太極と考えた)。

 『易経』には「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」とあるように、この太極(原初・始原の混沌とした状態)から相反する陰陽二つの状態(両儀)に別れ、その二気の消長と循環によって万物の事象が生じ、しいては未来の予想を行うと考えた。

 さらに五行説は、自然界や人間社会の諸現象など森羅万象の生成・変化を説明する原理で、木・火・土・金・水という五つの要素を考えた。これらの気(五つの要素)が循環することで森羅万象の生成・変化が行われると考えたのである(五行の「行」という字には「巡る・運行」という意味がある)。

 このように陰陽五行思想は、古代中国で別々に成立した陰陽説と五行説は結びつき、宇宙生成原理はもちろん人間の生き方(道徳)をも含むものに発展していく。

 つまり、 宇宙に存在する森羅万象を「陰・陽」二元(二気)の働きによって説明し、次に「木・火・土・金・水」の五行(五気)による運行により判断を下すという思考スタイルといえる。

(※注3) 陰陽(易の思想、陰陽の二元→四象→八卦)と五行(木・火・土・金・水に気の働きを還元する思想)は、中国神話によると、フツキ(半蛇人)とウ王(人面魚体)に、万物の秘密を凝縮した神秘図(河図)とこの世界を治めるための根本を示す天与の書(洛書)という形で与えられたという。フツキ(半蛇人)は「河図」を基に八卦を編み出し、ウ王(人面魚体)は「洛書」を基に五行を編み出したという。

 その後、フツキ(半蛇人)とウ王(人面魚体)の後を受けて現れた聖人の文王(周の王、紀元前十二世紀)や孔子(紀元前五五一~四七九年頃)だとされている(この易の由来譚は陰陽五行説と儒教を結び付けるための説話と考えられます。こうした結び付きから、天人相関思想・天子思想・天命思想・天譴災異思想が生まれた)。


スサノヲ(スサノオ)


◆小正月、トンド祭りとトンド焼き

2007年01月23日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆小正月、トンド祭りとトンド焼き

「トンド祭り」と「トンド焼き」、興味がわいたので、調べてみた。

(一)トンド祭りとトンド焼き(正月の火祭り)、鬼火、道祖神祭とサイノカミ焼き

 正月の飾りや書初めなどを持ち寄って、一年の家内安全を祈りながら焼くことを「トンド」という。正月の松飾りや書き初めなどを焼く左義長(さぎちょう)行事を出雲や隠岐ではドンドさん(歳神祭り)、あるいはトンド焼きという。

 毎年一月十四日夕(七日、十四日、十五日など、地域により違いがある。四日間開かれところもある)、集落の正月行事として行ってきた「トンドさん」は、太い青竹を立て、それを取り囲むようにして稲わらを立て並べる。

 その根元には各家々から持ち寄ったしめ縄などの正月飾りを積み上げてトンドという聖なる火で燃やし、歳神を送るのがトンド行事である。

 トンドの火は聖なる火で、この火に当たると風をひかないとか病気をしないと言われた。トンドの火で正月もちを焼き、家族全員で分け合って食べ家内安全を祈る。

 トンドで燃やす書き初めが、空に高く舞い上がるほど書が上手になると言われ、子どもたちはぼうぼうと燃える炎に向かって小さな手を合わせたり、また、火が燃え盛り、青竹の節が大きな音をたてて弾けると、みんなで「トンドやーい」と大声ではやしたりする。

 地域により違いがありますが、トンド祭り・トンドさん(歳神祭り)が二日から三日間開かれ、四日はフィナーレの御輿(みこし)巡行やトンド焼きが地区を挙げて繰り広げられる。

(二)「トンド」の名について、

 この「トンド」の名については、火の燃え盛る音からでたという説や、「尊い」という意味の「トウト」からきているという説もあります。七草を前夜はやすときも、「トウト トウト 唐土の鳥が、日本の国に、渡らぬさきに、民、民、富めよ・・・」の「トウト」と同じだという。

(三)左義長(さぎちょう)行事

 左義長(さぎちょう)の起源とされる説については、中国の爆竹から来たというのがある。燃やす時に竹を入れて、その破裂する音をわざとたてる。竹の音が大きくはぜると縁起がよいとされている。

(四)トンドさん=歳神=正月の年神様=穀物神=大歳=ニギハヤヒ命(饒速日命)=スサノヲ命(須佐之男命)ほ第五子?

 秋田男鹿半島の小正月の行事の「なまはげ」、この鬼たちも「年神様」のようである。「なまはげ」のような「訪れ神」「来訪神」は全国にさまざまな形で存在する。こういった神を、民俗学者の折口信夫は「まれびと」と表現している。

 中部地方以北では「サイトバライ」「サイノカミ」「サイト焼き」「サイトウバライ」などというところが多くある。「サイノカミ」を「道祖神」と呼んだりもしている。


スサノヲ (スサノオ)


◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(三)

2007年01月19日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(三)

◆◇◆小正月の一連の行事、七日正月・十五日正月・二十日正月

 七日正月(一月七日までを松の内ともいい、小正月に先立つ重要な日)には、七草粥を食べて一年の無病息災を願う。上弦の月の夜にあたる七日は、新月から始まった大正月の終わりの日であると共に、満月に向かって輝きを増していく小正月の始まりの日とされ、色々な祭礼を催して、月の復活と新生を祝った。

 また、一月七日は五節句の一つ「人日」(じんじつ)とされ、中国では晴雨にかかわらず邪気を祓うため七種菜(しちしゅんさい)の羹(あつもの)を食して、その年の無病息災を祈ったことが、七草粥の起こりとされている。

 春の兆しそのもののような七草を身の内に取り込むことは、とりもなおさず、自然と一つに溶け合い、自らもまた新たな命として甦りを実感する、大切な節会(せちえ)だったのである。

 こうして、上弦の半月の七日正月を過ぎた月は、日々明るさと大きさを増して、十五日に満月の小正月を迎える。この日に食べるのが小豆粥である。そのため、小正月を「小豆正月」と呼ぶ(満月を年の初めとした頃の古い暦の名残りである。小豆正月は養蚕の豊収を神に祈ったのだともいう)。

 この日は満月であり、大昔の生活ではむしろ小正月が一年の境目であったのである。また小正月の行事には、年占いや、予祝行事もあり呪術的な要素が強いのが特徴である。ナマハゲは元々、この小正月の行事であったので、小正月に行なわれるにはそれなりに重要な意味があった。

 さらに、柳や水木の枝に餅を花のように付けた餅花を米の豊作を願って飾ったりもする(小正月は、「女正月」「花正月」とも呼ばれる)。

 やがて、満月の小正月も過ぎて月は再び欠け始め、下弦の月を迎える二十日が、「骨正月」です。お節料理の鰤(ぶり)の骨(二十日頃には、正月の料理ももうあらかた食べ尽くされて残り少なくなり、鰤のアラと大根を煮炊きして=ブリ大根や粕汁などを食べることから骨正月ともいう)や固くなった鏡餅を食べるところから、「乞食正月」「奴正月」「棚探し」などともいわれ、正月の終わりとする地方もある。

 このように、小正月は、まず七日の七草粥を食する「七日正月」で始まり、十五日の「小豆正月」を中心に、二十日の「骨正月」まで続く、一連の行事の総称である。

 古来の人々の暮らしは、太陰暦で日を数えていた昔から、月の満ち欠けと密に結びついていて、月の細くて暗い朔日(ついたち)の大正月よりも、満月に照らし出される小正月に歳神(年神・正月)との想いを、強く感じ取っていたのである。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)七草粥は、七日の朝かその前夜に春の七草を俎板の上にのせ、包丁で音高く刻みながら、「七草なずな、七日の晩に、唐土の鳥が、日本の国へ渡らぬ先に、七草なずなを手につみ入れて」と唄い囃すが、台所にある火箸や十能なども持ち出して、うるさいほどに打ち鳴らす、いわゆる「七草囃子」は、やはり悪霊退散の祈りであったと思われる。

(※注2)小豆粥の行事は、地方の神社で神事として行う所もあり、一般には農村における重要な神事の一つであった。小豆粥を炊くには「粥杖」とも呼ばれ、クヌギの棒で作った「粥掻き棒」で、小豆粥をかき混ぜ、棒の割れ目に入った粥の状態で、その年の吉凶を占うという風習がある。

 また、この棒で石女(うまずめ)の尻を叩くと子宝が授かるといわれ、古くは清少納言も『枕草子』の中で、殿中の女房たちが、かゆ杖で打たれ、嬌声をあげて逃げまどう様を面白おかしく描写してる。

(※注3)関西では、鰤(ぶり)の骨や頭を煮て食べるので骨正月という。鰤は小より大に至るに従って次第に名を変える。

 成長につれて名が変るように人も師の教えによって心の徳が増すことを祝う。師は人の孝悌(こうてい)の道を教え、天下を治める道さえも知らしめるものである。
 
 そこで、縁起のよい魚偏に師の字を書いた鰤を用いたといわれている。また、団子を作って食べるのでこれを二十日団子という。また、赤小豆餅を食べ赤飯を蒸す。


スサノヲ (スサノオ)


◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(二)

2007年01月16日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(二)

◆◇◆月の満ち欠けへの想い、小正月の様々な行事

 小正月に行われる行事は、削り掛け、繭玉(まゆだま)、餅花(もちばな)などの物作りを飾り、農耕を模して豊作を予祝する庭田植え・成り木責め・鳥追いのほかに、七草粥(ななくさがゆ)や小豆粥(あずきがゆ)を食べ、夜にはナマハゲなどの異様な訪問者があったり、粥占い・歩射(ぶしゃ)神事・石合戦・綱引きといったその年の豊作を占ったり、総じて小正月行事には古い祭事が残っている(大正月は門松を立て、鏡餅を神棚に供えて神迎えをする年頭の儀礼行事や公式行事に対して、小正月には農耕に対する予祝=五穀豊穣を祈る儀礼や生活に則した民俗信仰による行事が多く集中している)。

 また、田遊び・田楽祭りといった稲作の予祝神事を行う所も少なくない。成木責め(なるきぜめ)といって果樹を傷つけたり打ったりして、「成らぬなら切るぞ」とその木の霊に豊かな実りを働きかける祭事や、同じような意味で新婚の若妻の尻を叩く嫁叩き(よめたたき)も各地で行われている。

 これらはすべて農耕儀礼と見ることができ、年占いや呪術的な要素が強いのが特徴である(仕事始め、鍬入れ、山入り、若木迎えなどと呼ぶことから行事の性格を窺い知ることが出来る)。

 小正月は、まず七日の七草粥を食する「七日正月」(大正月の終わりの日であると共に小正月の始まりの日)ではじまり、十五日の「小豆正月」を中心に、二十日の「骨正月」まで続く、一連の行事の総称である。

 古来の人々の暮らしは、太陰暦で日を数えていた昔から、月の満ち欠けと密接に結びついていて、月の細くて暗い朔日(ついたち)の大正月よりも、満月に照らし出される小正月に歳神(年神・正月様)が訪れるとの想いを、強く感じていたようだ。

 今では元旦のお正月(大正月)ばかりが盛大にお祝いされていますが、元来は一月十五日の小正月の方が重んじられ、人々は色々な祝い事とや慣わし事とを、大切に守り伝えてきたのである。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)十五日前後の小正月には、農作予祝(予祝というのは呪術の一種で、一年の初めにあたって行われる)の多種多様な行事が集中しているが、幾つかにまとめる事が出来る。

 ①種々の物作り:農作物の稔り豊かな姿を模した予祝儀礼の粟穂稗穂や削り掛け・削り花、餅花・繭玉・綿団子、箸祝い、粟穂稗穂などの物作り。②種々の所作:庭田植え・さつき祝い、豆ぬかまき・ホガホガ、嫁祝い・嫁叩き、成木責め・木まつり・ナレナレ千ナレなど(豊作の様子を模擬的に表現すると、事実その通りなるという俗信に基づく豊作祈願の一方法です)。③占い:一年の天候や作物の豊凶を占う年占い・豆占い・粥占い(筒粥神事)・穂だめしなど。④神の訪れ:子供や厄年の者、または鬼面をかぶった神役の者などが、家々を来訪する津軽のカパカパ・中国地方のホトホト・九州のカセドリ・能登のアマメハギ・岩手や秋田のナマハゲ・その他カーゴアマ・マユンガナシ・ヤマドッサンなどの神の来訪。⑤火祭り:正月の松飾りを一ヶ所に集め小屋掛けして焼き払い無病息災を願うトンド・ドンドン焼き・サイト焼き・サイノカミ・左義長など。

 小正月にはこうした行事が各家、また村落の協同で、様々な形で展開されている。これらの小正月行事は農耕予祝儀礼が主要素を占め、本質的には農民的性格のものある。

(※注2) 秋田県・男鹿半島では小正月の夜に、恐ろしい鬼・ナマハゲに扮した人が、家々を訪ねて子供に説教をする。酒と餅を供せられ、酒だけを飲んで餅を置いていく。ナマハゲは歳神(年神)の権威と威力を誇示したものである。

 また、「ホトホト」「コトコト」などといって、神に扮した人が家々を訪ねたり、子供が餅などを持って歩いたりする行事も広く行われている。

 秋田のナマハゲをはじめ、年の始めに訪れる神を鬼(鬼というのは本来は神であり、超自然的な畏るべ強大な威力を持つ荒ぶる存在である。節分の「鬼やらい」「追儺式」の鬼も本来神で、近畿地方では節分を「神の正月」ともいう)で表す祭りや伝承は、日本中に見られる。恐ろしい荒ぶる力を鎮めて、和やかな福を下さいと願うのである。


スサノヲ (スサノオ)