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◆神話の死生観、死を発見し理解し概念として他者と共有した
死の概念は、人類の進化とともに現れてきた。
ネアンデルタール人は、死を理解し、死者に花を供えたという。日本でも、縄文時代草創期に長野県野尻湖の遺跡で、死者に花が供えられていたことが花粉分析によって確認されている。
人類以外の動物は死んだ仲間に花などを手向けない。人類が花を手向けたり、墓を作るのは、死を発見し、理解し、概念として他者と共有したからである。
死の発見は同時に、生の発見でもあったのではないだろうか。生の発見は、生命や霊魂についての観念、死後の世界や他界についての観念の生成を意味する。
つまり、宗教の誕生である。
人類の進化の歴史の上で、死の発見ほど偉大な発見はなかったと言っていい。それは精神世界のビックバンをもたらしたに違いない。
世界各地に伝わる死の神話や叙事詩は、人類の祖先による死の発見と他界観念の生成をめぐる物語である。
シュメールの女神イシュタルなどの神話は、日本神話のイザナミの国生みと黄泉の国神話と共通する部分がある。
日本の神話の中に、死生観を見てみますと、
1、イザナギ・イザナミ神話
2、アマテラス・スサノオ神話
3、スサノオ・オオクニヌシ神話
の中に見られるが、その中でも、1のイザナギ・イザナミの黄泉の国の神話に、生と死を分かつ物語が集約されている。
物語は、高天の原から天下り、二神の結婚により大八島および神々が生まれる。イザナミは、火の神カグ土に焼かれ黄泉の国へいく。
イザナギは悲しみ黄泉の国へ探しに行くが「見るな」の禁忌を破りイザナギの姿を見てしまう。イザナギは逃げて、黄泉比良坂で事戸渡しする。この後、イザナギは、死穢の禊祓により三貴神の誕生となる物語である。
黄泉比良坂では、神々を生み出したイザナミが、死後一転して一日に千人ずつ人間をくびり殺す恐怖の死の神、黄泉津大神となり、イザナギは、されば一日に千五百人の人間を生もうと宣言する。
このようにイザナミは、生と死の両界の創造者であり、死には、生者を死へと引きずり込もうとする力が内在すると考えられていたのだ。
その死の力の影響を払拭する方法が、「『吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。故、御身の禊ぎせむ』とのりたまひて筑紫の日向の小門の阿波岐原に到り坐して禊祓ひたまいき」と記されているように、死の力を祓い清める行為である。
禊ぎ祓われたわけであるが、そこに三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)の誕生となるのである。ここに生と死のダイナミックな循環のメカニズムを持つ死生観が見えてくる。
神話とは、神と人と世界の始原を説く物語である。ここから学び取る事は、多々ありそうだ。
スサノヲ(スサノオ)
◆メッセージ2 日本の神話と古代史と文化 スサノヲの日本学
日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れだが)、経済的には大国になりました。
しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。
海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題があるが)。
日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのことに日本人自身が気付くことではないかと思います。
元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。
日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。
つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。
自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。
こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。
二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。
つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。
日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。
これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもある)。
また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。
「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。
ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。
いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。
そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにある。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのだ)。
日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスションや示唆を与えてくれるかもしれません。
スサノヲ(スサノオ)