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◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(一)

2007年01月15日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(一)

◆◇◆暦による二つの正月、大正月と小正月

 正月の行事は年中行事の中で最も重要な行事である。正月は新たな年の始まりとして歳神(年神=としがみ)を迎え、一年の無病息災と、その年の稲作や畑作の豊穣を祈る行事や神事が多くみられる。

 今日行われている正月行事には元旦を中心とする大正月(朔正月、中国から朔旦=さくたん=ついたちの朝を正月とする新しい暦が入ってきて、官庁で行われはじめる)と、

 十五日(望を中心とする小正月の正月、満月から始まる正月であり、かつては月の満ち欠けにより、満月から満月までを一ヶ月とした暦を使っていた。そのため、年の初めの正月は十五日から始まりました)と呼ばれるものと、

 二つの部分に分かれている(民間の間では混乱が生じて、両方の正月を二重に祝う所もある)。

 古くは月の満ち欠けによって月日の移り変わりを計っていたので、満月の十五日「望(もち)の日(原始的な暦法では満月の日が初日)」が一年の始まりであった(お盆が今でも十五日を中心としているのはその名残である)。

 しかし、持統天皇の四年(六九〇年)、公的には新月の日を一日とする中国の暦法の太陰太陽暦(太陰暦に季節を調節するための太陽暦を加えた暦=旧暦)が使われ始め、暦上の一月一日が元旦とされた(月の満ち欠けによるものながら、欠けた月が再び満ち始める日を初日としました。これを朔日=さくじつという)。

 そこで朝廷の決めた一日正月(朔正月)を「大正月(おおしょうがつ)」とし、昔ながらの十五日正月(望の正月)を「小正月(こしょうがつ)」と呼ぶようになる。

 つまり、正月が二重になるのは中国の暦法が取り入れられて、官によって励行されることによって変わったためで、暦を中心としたのが「大正月」(中国の暦法にならって官暦では)で、月齢を中心にしたのが「小正月」(農耕と生活のリズムが月の満ち欠けで日を数える朔望暦=さくぼうれきで行われていた)といえる。

 その後、次第に元旦中心の正月(一日正月、朔正月、大正月)が定着し、正式な正月として祝われるようになっていっても十五日(十五日正月、望正月、小正月)の正月行事は残っていく。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)昔の生活は、月明かりを利用することが多かったため、闇夜の大正月より望(もち=満月)の小正月の方が重視され、昔の生活の上ではむしろ小正月が年の境目であった。

 つまり一月十五日の満月祭が最も中心的な年初行事の行われる日であったのが、元日に年初が移されてから、元来十五日に結び付いていた行事が二つに分れ、一つは元旦の方に引き寄せられていったものと考えられる。

 したがって重要な正月は、小正月の方に集中しているわけで、太陰暦から太陽暦への移行に伴って、現在でも旧暦で行事を営んでいる地方と、新暦で行うようになった地方とが交じり合っている。

(※注2) 大正月は門松を立て、鏡餅を神棚に供えて神迎えをする年頭の儀礼行事などがあり、今では元旦の正月(一日正月・朔旦正月・大正月)ばかりが盛大に行われているが、元来は一月十五日の小正月の方が重んじられ、人々は色々な祝い事や慣わし事を、大切に守り伝えてきた。

 小正月は「望の正月」「女正月」「花正月」「年取り」「小年」など地方によって様々な呼び名がある。日本の古い暦観念では、月の満ち欠けを基準にしていたので、望(満月)の頃が、むしろ正月の始まりであったとも考えられてる。

 つまり大正月に公式的な行事が多く、小正月にかつての日本人の農業を中心とする祝行事や生活に即した民俗信仰による行事(農耕に対する予祝=五穀豊穣を祈る儀礼行事)が集中している。

 また、小正月の時期の始まりはいつからかは明らかではないが、行事の性格上からは仕事始め、鍬入れ、山入り、若木迎えなどと呼ぶ日からとも考えられる。


スサノヲ(スサノオ)


◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(五)

2007年01月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 06:37 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(五)

◆◇◆エビス信仰、その信仰コミュニティーの成立過程(3)、市の神から日本の福神の代表へと発展

 エビス(ゑびす)神は漁村の漁民が祀る海から寄り来る海の幸をもたらす神(神霊)と考えられていた(日本は周囲を海に囲まれた島国なので、外=海から寄り来る神が豊かさを運んでくるという素朴な信仰観念がありました)。

 次第に内陸に広がると、中部地方の農村などでは田の神をエビス(ゑびす)と呼ぶところが出てくる(本来は漁業の大漁をもたらす神であったが、農業の豊作をもたらす神として受け入れられる)。また山の神をエビス(ゑびす)神とする信仰も中世以降にみられる。

 漁民や農民にとっての脅威は、自然を司る神の怒りである。それゆえに豊漁や豊作をもたらすよう祀り、共同体社会の守り神として祀ったのである。豊漁や豊作があると、そこに収穫物の取引の市が生まれ人が集り賑わう。エビス(ゑびす)神を市場の守護神として祀る風習も、この時起こってきた。

 つまり市場の誕生と町や都市の商業社会の発展だ。しかし、町の商人にとっての最も大きな不安は不景気や破産であり、そのため商売繁盛をもたらすよう祈り、町の商家では商業の守護神として祀ったのである。

 その後、中世・近世になって町人文化が花開く京都・大阪・江戸の三都を中心に福神信仰や七福神信仰が広まり庶民の間に定着する。そうした福神のイメージを代表するのが、今日私たちが知る七福神のエビス(ゑびす)様の姿である(満面に笑みをたたえた福相をして、デップリと太り狩衣指貫=かりぎぬゆびぬきに風折烏帽子=かざおりえぼしを被り、鯛を抱え釣竿を肩にかけた姿)。

 このように祀る共同体社会(コミュニティー、漁村・農村・町=都市)の性格によってかなりの相違のある神といえる(本質は豊漁や豊作・豊かさなどの福をもたらしてくれる神で、幸福を希求する日本人の民俗性から生み出された独自の信仰なのである)。

 エビス(ゑびす)講というこの神を祭る行事も、日取り・行事の形態などが土地や共同体社会によって一定していない。町中では十二月二十日に行う所が多いようだが、農村では神無月の十月に行い、二股大根などを供える所が多い。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注) 海辺の漁村では豊漁があると、人は集り賑わい市が誕生した。本来漁村の豊漁の神であったエビス(ゑびす)神も市場の守護神として祀る風習が後に起こってくる。その市には、傀儡子(くぐつし、戎舞わし)や人形芝居など神に奉納する類の芸能が発展してくる。西宮神社周辺も傀儡子の発祥地としてよく知られている。

 この芸能や商売の発展によって人の交流も盛んになっていく。すなわち、人があちこちら散らばることによって、信仰が広まっていくのである。古い文献を見ると、乾元元年(一三〇二年)、奈良の南の市を開く時、恵比寿神社を祀ったという記録がある。建長五年(一二五四年)、鎌倉の鶴が丘八幡宮に、やはり市の神としてエビス(ゑびす)神を、奉祀したという記録もある。

 このようにエビス(ゑびす)神は、鎌倉時代の頃から「市の神」「市場の守護神」として祭られるようになり、商業の発展にともなって次第に商売の守り神としての信仰を獲得するようになっていった。その中心になったのが兵庫県西宮市の西宮神社で、エビス(ゑびす)神を福神信仰として全国的に広める役割を果たしていった。

 また島根県の美保神社では、元々は天神を祀っていたが、文化十年(一八一三年)にエビス(ゑびす)神になぞらえられる事代主神が登場する。事代主が一般的になるのはこの頃ではないかと考えられている。この頃にエビス(ゑびす)信仰が広まっていったようだ。

(※注) エビス(ゑびす)神は、本来漁村で「海の神」として信仰されたものだ。エビス(ゑびす)信仰の総本山である兵庫県の西宮神社が、広田神社の摂社であったのが民衆によって盛り立てられ隆盛を極める。元々はローカルな漁村の漁民の神であったものが、今やもっともホピュラーな神であるエビス(ゑびす)神となるのである。

 神話学者の松前健氏は『日本の神々』において日本の神はローカル性があり、それが『記・紀』神話に取り入れられたのではとの見解を示している。また、柳田国男が「百姓えびす」について言及しているように、エビス(ゑびす)神は海だけでなく山においても祀られている。


スサノヲ (スサノオ)


◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(四)

2007年01月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 06:35 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(四)

◆◇◆エビス信仰、その信仰コミュニティーの成立過程(2)、「海の神」「漁民の神」

 エビス(ゑびす)神は、今では商人・農民の間に広く信奉されているが、本源(原初的信仰)はやはり「漁民の神」であったといえる。

 古くから漁村では、異郷から訪れて豊漁をもたらすものを神(神霊)として信仰する習俗が全国各地にあった(日本固有の「寄り神」「訪人神」の信仰を背景にして、特定の神人群によって流布したものと考えられる)。

 地方によっては、鮫や鯨・海豚などのことをエビス(ゑびす)と呼ぶ。これはそれらの鮫・鯨・海豚などに追われて魚群が海辺近くに現れることから、霊力ある神として考えられていたからである。


 また、海難者の水死体をエビス(ゑびす)の御神体として祀るところがあったというし、また海中から拾い上げた奇異な形の石をエビス(ゑびす)として御神体としたり、漁網の中央の浮標(うき)をエビス(ゑびす)と呼んだりしているところもある。

 こうして見ると、エビス(ゑびす)神は漁村の漁民にとって豊漁をもたらす神霊として信仰されていたということが根本にあったことがわかる。漁の大半が海であることから、「航海の守護神」としての信仰も中世には起こってくる。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) エビス(ゑびす)神は、夷・戎・蛭子・恵比須・恵比寿とも書き、もともと異郷からやってきて、人々に幸福や幸をもたらしてくれる神と信じられ、漁民に深く信仰された。

 エビス(ゑびす)神の祠に祀られるのは、必ずしもエビス(ゑびす)の神像や御札だけでなく、浜に打ち寄せられた浮遊物や海中の石などもある。それらはみな海の恵みであり、福をもたらすものだと考えられたからだ。

 鯨や鮫・海豚をエビス(ゑびす)と呼んで尊ぶ風習は全国的に存在する。鯨や鮫・海豚には必ず魚群がついてきており、鯨や鮫・海豚が近寄ると大漁をもたらしてくれるからだ。

 また、水死体を「エビス(ゑえびす)」といって供養することも全国的な漁村の風習だが、これは葦船で流されたヒルコ(蛭子)神信仰からきたものと考えられるし、死体には魚類が集まるので「福の神」とみなすという考え方と一つになったものとも考えられる。このように漁村で「福の神」として信仰されていたヒルコ(蛭子)神が、農家や商家でも祀られるようになる。

 こうした寄り神信仰とは、神来臨信仰の一つで、川海などから漂着し来臨するという観念に基づく信仰である。『文徳実録』斉衡三年(八五六年)十二月条に、常陸国鹿島郡大洗磯前に怪石が海から揚がったので神として祀ったと伝えている。このように御神体の縁起としての寄り神伝説やそれに基づく神事は各地に広くみられる。

 民間では漁村のエビス(ゑびす)信仰もそれである。伊豆大島や新島・神津島のように、キノヒの明神が一定日時に海上から寄り来るのを迎え、厳しい物忌みの下に祭りを行うのも寄り神信仰の特徴を最もよく表している。

 寄り神の信仰は、祭りに当たって遥かな海上他界(常世の国、ニライカナイなど)から神を迎えることにあり、その背景には海上他界観の存在したことが推察できる。

(※注2) エビス(ゑびす)信仰の総本山である兵庫県の西宮神社の起源は、寄り神的な考えに基づく漁民信仰の一つと考えられる。古くから漁村では、一定の儀式によって海底のの石を拾い、あるいは漁網の中に入った石や漂流物を拾い上げて祀る風習が近年まで広く行われていた。それは全国の漁民一般に見られるものだが、西宮の辺りにも、海から上がったという神の伝承を持つ所が多くある。

 では、西宮神社だけが全国のエビス(ゑびす)社の本家のようにいわれ、後世に見るような隆盛を見るようになったのであろうか。それは西宮神社とゆかりの深い広田神社が、神祇伯を世襲した白川家の最も重要な所領であったことと深く関係している。

 元来、西宮の夷社=現在の西宮神社は、旧官幣大社広田神社の末社に過ぎなかったのだが、市の発展と商業の発展によって、商都大坂・堺を中心として、庶民の信仰を集めた。

 さらに戎舞わしの下級神人や戎舁き(戎舞わしの傀儡子=くぐつし)が、エビス=ゑびす神の神札と人形を持って諸国を周ったので、その結果、広範囲に布教されていったのである(エビス=ゑびす神は漁師が大漁を祈っていたが、海産物の売買により「市の神」「商売繁栄の神」「福の神」として、広く商家にまで信仰されるようになる)。


スサノヲ (スサノオ)


◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(三)

2007年01月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 06:34 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(三)

◆◇◆エビス信仰、その信仰コミュニティーの成立過程(1)

 エビス信仰とは、農漁村や商家などで生業を守護し福徳をもたらす神として、日本全国で見られる信仰である。エビス(ゑびす・夷・戎・蛭子・恵比須・恵比寿)の語源については、異郷から訪れる神という観念が強く認められる。

 日本固有の「寄り神」「訪人神」の信仰を背景にして、特定の神人群によって流布したものと考えられる。漁村では祠に祀った神だけでなく、鯨・鮫・河豚をエビス(ゑびす)と呼ぶことが多く、大漁をもたらす神(神霊)と畏敬されてきた(エビス=ゑびすという語は忌詞で、大漁の前兆として直接に呼ぶことを避けたための言葉とも考えられている)。

 また場所によっては、祠に祀ったエビス(ゑびす)の御神体が漂着神であったり、網にかかって揚がったものなど地域によって違いがあつが、エビスへの信仰は全国的に分布する。(※注1)

 この漁村に発したエビス信仰は、次第に内陸に伝播し、農業神となり、更に商家の神ともなる。そこには、夷舞わし(ゑびすまわし)や戎舁き(ゑびすかき、戎舞わしの傀儡子=くぐつし)などの芸能を持ち歩いた人々の力と影響を見ることが出来る。

 このように今日見るエビス信仰(庶民に篤い信仰を持たれて親しまれている民俗信仰)が成立する過程を考察すると大きく別けて、三つの共同体社会(コミュニティー)(漁村、農村、商業社会=商家)とその成立過程を見ることができる。

 それは「海の神」「市の神」「福の神」としてのエビス信仰と共同体社会(コミュニティー、共同体社会の変化と発展過程)との関係である。このエビス信仰という民衆にもっとも親しまれた民俗信仰を、少し考察してみよう。(※注2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) エビス(ゑびす・夷・戎・蛭子・恵比須・恵比寿)神は、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民俗信仰(民間信仰)の中で広く受け入れられている神(神霊)である。

 語源は定かでないが、「夷」つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃厚に観念されている。現在一般にエビス(ゑびす)の神体と考えられている烏帽子を被り鯛と釣り竿を担いだ神像によっても窺えるように、元来は漁民漁村の間で、より広範に信仰されていたものだが、しだいに商人や農民の間にも受容されたと考えられている。

 漁村では多くの地方で、海中から拾った、あるいは浜辺に漂着した丸い石をエビス(ゑびす)の御神体と定めて祠に納め、初漁祝いや大漁祈願など各種の漁に関わる行事で祭りは行われている。

 また鯨・鮫・海豚などをエビス(ゑびす)と呼んだり、遭難者の遺体や漂着物をエビス(ゑびす)と呼んでこれを決して粗末には扱わない風習があった。

 さらに漁師が海に出漁するときや、釣り糸を垂れるとき、海女が海に潜るときなどに「エビス(ゑびす)えびす」と唱え言をすれば漁があると伝えている所も多いようである。

 いずれも、魚群は回遊するという性質と、この神霊に観念されている属性とが結び付けられていると考えられる。

(※注2) エビス(ゑびす・夷・戎・蛭子・恵比須・恵比寿)神は、漁師や農家あるいは商家などで、生業を守護し、福徳をもたらす福神として祀られている。この神は、ヒルコ(蛭児命)あるいはコトシロヌシ(事代主命)とする両説がある。

 また七福神の一つとして大黒天と並び祀られる。古くより「寄り神」「訪人神」として海浜に祀られ、漁師が大漁を祈っていたが、海産物の売買により「市の神」「商売繁栄の神」として、広く商家にまで信仰されるようになった。

 関西では一月十日を「初戎」「十日戎」といって、兵庫県西宮市の西宮神社、大阪市の今宮戎神社などへ招福を祈る多数の参拝者があり、西日本の神社でも一~二月に同様の祭りが多く行われる。

 農家では旧暦の一月と十月の二十日にエビス棚(夷棚)や祠に鯛などを供え、豊作の祈願と感謝の祭りをする「えびす講」の行事もある。

 商家でも秋に「えびす講」あるいは「誓文払(せいもんばらい)」と称し、駆け引きで客を欺いた罪を祓うため、神社に詣でたり、客を供応したり、大安売りをすることがある。


スサノヲ (スサノオ)


◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(二)

2007年01月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 06:31 Comments( 0 ) 祭りに見る日本文化考



◆エビス神、信仰コミュニティーの成立(二)

◆◇◆エビス(ゑびす・夷・戎・蛭子・恵比須)神、ヒルコ(水蛭子・蛭児)とコトシロヌシ(事代主命)

 エビス(ゑびす・夷・戎・蛭子・恵比須)神はいうまでもなく、七福神(商業社会が成立する室町時代、インドや中国の神々を集めた福神信仰が広まる)の一柱として、また商売の神として各地で篤く信仰を集めていた。

 実はこのエビス(ゑびす・夷・戎)は、他の七福神の中でも例外的な存在である。というのも、七福神のほとんどが大陸系(インド・中国)の色合いが濃い神であるのに、エビス(ゑびす・夷・戎、狩衣指貫に風折烏帽子を被り大きな鯛を抱え釣竿を肩にかけた福々しい姿)神だけは複雑な経過を辿り生まれた日本の神だからだ。

 このエビス神(神名には夷・戎・恵比須などが用いられるが、異郷・辺境から来訪して幸をもたらす威力ある荒々しい神を表す。また漁村では広く鯨・鮫・海豚を「ゑびす」と呼んだり、漂流する死体を「ゑびす」と呼んだりして、豊漁の前兆とする信仰がある)にはイザナギ命とイザナミ命の最初の子神であるヒルコと無類の釣り好きというコトシロヌシの二つの顔がある。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 本来は海の彼方から福をもたらす漁業の神、後に商工業の発展に従い商売繁盛の神として庶民に広く信仰されるようになる。毎年一月十日を初戎(十日戎)として百万人の参詣・参拝客で賑わう。

 西宮神社(兵庫県西宮市、福神ゑびす=西宮ゑびすの総本社)の祭神は西宮大神(蛭子大神)を主神として天照大神・須佐之男大神・大国主大神を祀る。

 西宮ゑびすの名が文献に見えるのは平安末期からで、『伊呂波字類抄』に「夷(毘沙門、ゑびす)」(毘沙門とあるのは本地垂迹説によるもの)とあるを初見とする。

 西宮ゑびすには次のような伝承がある。「昔、鳴尾の浦の漁師が夜に武庫の海で網を曳いていると神像のようなものがかかった。漁師はこれを捨ててさらに進み、和田岬の辺りで網を曳くと捨てたはずの神像が再びかかった。そこでこれを持ち帰って家に祀った。

 ある夜の夢に神の信託があり『われは蛭子神(ひるこのかみ)である。国々をまわってここまで来たが、ここより西に適地がある。そこに鎮まりたい』と伝えた。

 漁師はこの夢を里人に話し、神像を輿に載せてこの地に祀ったという。」 つまり西宮ゑびすの起源は、寄り神的な習俗を基とする漁民信仰(海人信仰)の一つであると考えらる。

(※注2) 一つはイザナギ命(伊邪那岐命・伊弉諾尊)とイザナミ命(伊邪那美命・伊弉冉尊)の最初の子神でありながら海に流されヒルコ(水蛭子・蛭児)である(流産児や未熟児を川や海に流した「オカエシ」という古俗の反映か)。

 『源平盛衰記』によると、後にこのヒルコがアメノイワクスブネ(天磐樟船)に乗って摂津国西の浦に漂着し、土地の人々はヒルコを大切に育て夷三郎と呼び、そののち夷三郎・戎大神として祀ったとする伝承(西宮=エビス信仰の総本社の西宮神社には、別の伝承があります)を伝えている。

 海の向うの理想郷=常世の国から訪れるマレビト神・寄神の信仰による。海の恵みや海からの漂着物は神の賜物とされた)を伝えている。このエビス(ゑびす・夷・戎)は豊漁や海上安全の「海の神」、交易・商業の繁栄の「市の神」、商売繁盛をもたらす「福の神」として民衆から圧倒的な信仰を持たれていくのである。

(※注3) そうしてもう一つの顔は、島根県八束郡美保関町の美保神社に祀られてるのオオクニヌシ(大国主命)の子神・コトシロヌシ(事代主命、天孫族の国譲りに際し、抵抗もなく服従し海に身を隠した神)とされている。

 ちなみに、美保神社に祀られるコトシロヌシ(事代主命)としてのエビス(ゑびす・夷・戎)は、左手に鯛を抱え、右手に釣竿を携えた、今見ることのできるエビス(ゑびす・夷・戎)の原形に近い。

 このエビス(ゑびす・夷・戎)は海の神として漁師の信仰の対象になっていた。コトシロヌシ(事代主命)が大漁の神・エビス(ゑびす・夷・戎)とされたのは江戸時代のことのようで、オオクニヌシ(大国主命)の大黒と対をなす祭神は「出雲大社だけでは片参り」と広く信仰された。この二柱の神は、なぜか民衆に熱狂的に崇拝されてきたのである。


スサノヲ (スサノオ)