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◆メッセージ2 日本の神話と古代史と文化 スサノヲの日本学 

2007年01月05日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) スサノヲ(スサノオ)の日本学



◆メッセージ2 日本の神話と古代史と文化 スサノヲの日本学 

 日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れだが)、経済的には大国になりました。

 しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。

 海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題があるが)。

 日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのことに日本人自身が気付くことではないかと思います。
 
 元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。

 日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。

 つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。

 自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。

 こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。

 二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。

 つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。

 日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。

 これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもある)。

 また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。

 「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。

 ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。

 いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。

 そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにある。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのだ)。

 日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスションや示唆を与えてくれるかもしれません。




スサノヲ(スサノオ)


◆メッセージ1 日本の神話と古代史と文化 スサノヲの日本学

2007年01月04日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments( 0 ) スサノヲ(スサノオ)の日本学



◆メッセージ1 日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【滋賀】

 「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。

 私は専門的に学んだわけではありませんが、こうしたことに興味を持っています。まだまだ知らないこともたくさんあり、皆さんから多くのことを教えていただきたいと思っています。

 今の多くの人が、あまりにも日本の文化や歴史のことを知らな過ぎ、外からの情報に翻弄され刹那的に行動しています。このような拠り所を失い根無し草のように漂う様を見ていると、しっかりと自分たちのアイデンティティを見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を自覚することが必要だと感じるようになりました。

 国際化が叫ばれていますが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。

 特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界に興味を持っています。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶です。

 私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。その何かとは・・・。

 この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。

 このような、古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学びたいと思っています。




スサノヲ(スサノオ)


◆宮中の行事、皇室の祭祀、新年

2007年01月04日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 天皇祭祀に見る日本文化考



◆宮中の行事、皇室の祭祀、新年

(一)※皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われる。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮する。天皇はそれに拝礼する形をとる。

 皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われるが、先帝を祀る山稜でも行われる。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者があったが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっていく。

(二)※歳旦祭(さいたんさい)

 年始の小祭。元旦早朝に「四方拝(しほうはい)」(伊勢神宮、山稜および四方の神々を遥拝する新年最初の祭)の後、五時半から、宮中三殿で掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が天皇の代理として五穀豊穣と国民の加護を祈る。

(三)※元始祭(げんしさい)

 一月三日、年始にあたり皇統の祖と由来を祝い、国家と国民の繁栄を宮中三殿で祝う大祭である。天皇が拝礼し告文(つげぶみ)を奏す。このとき、皇族、宮内庁長官も列席する。


スサノヲ (スサノオ)


◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(七)

2007年01月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(七)

 「お節(おせち)」とは節日に用いられる料理のことで、「御節供(おせっく)」の略のことである。季節の節目に神に供えるものということで「節供」ともいう(今は節句と書くことが多いようだが、本来は節供です)が、 節日のうち特に正月の食事のことを指す。

 歳神(年神、五穀を司り家と家族に福運をもたらす神)を迎える正月は家族が一同に会し、供物の一部を分かち食する「直会」を行い新年を祝った。また、お節料理は三が日あるいは松の内までに大切な人を招いてもてなす料理でもあり、この饗応自体を「お節」あるいは、「お節振舞」といったそうだ。

 本来の意味からすると雑煮や屠蘇もお節料理の一種とも考えられる。現在、一般的にお節料理と言えば重箱に盛られた重詰めの料理のことをいうが、 お節料理は、それぞれに目出度い謂われがあり、目出度い材料を用いた「ハレ(晴れ)の料理」であり、地域によっても様々である。

 さらに、火を使わないで食べることの出来る料理でもあり、年中忙しい竈の神様と女性を休めるための料理ともいわれている。また、一月七日の朝には七草粥の風習がある。(※注1・2・3・4)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 昔は正月だけでなく、五節旬(一月七日・人日、三月三日・上巳、五月五日・端午、七月七日・七夕、九月九日・重陽)などの節旬の日に神様へお供えし、神事のあとの酒宴で一緒に食べたすべてのごちそうをお節(おせち)といっていた。

 正月にお節料理を食べるのは、神に供えたごちそうをみんなでいただくという意味と、神様を迎える正月に台所仕事をしてさわがしくしないという意味と、日ごろ忙しい主婦を三が日間休ませるための保存食であるといわれている。

(※注2) お節料理の一般的な重詰めは、*一の重(口取り)きんとん、かまぼこ、伊達巻き *二の重(焼き物)小鯛の塩焼き、ぶりの照焼き、鶏肉の松風焼 *三の重(煮物類)八つ頭、牛蒡、人参などの煮染め、昆布巻 *与(四)の重(酢の物)紅白なます、菊花かぶ *祝い肴(三つ肴・・・一の重に詰めるか、別の器に盛る)数の子、田作り、黒豆 ※祝い肴は明治初期まで「喰積」と呼ばれていた。

 当時は現在の煮物類をおせちと呼び、祝い肴を喰積(くいつみ)と呼んで重詰めにしていたようである。 江戸幕末の頃、江戸・京都・大坂では正月に蓬莱を飾り、江戸においてはこれを喰積と呼んでいた。

 三方の中央に松・竹・梅を置き、まわりに白米を敷き詰めます。その上に橙一つ、柑橘類、搗栗、ほんだわら、串柿、昆布、伊勢海老などを積み、さらに裏白、ゆずり葉などを置いたもので、京都と大阪では床の間に飾り、江戸では年賀の客にすすめたそうだ。

(※注3) お雑煮は 正月の祝いの食物である。一説に、もとは大晦日の夜に歳神(年神)に供えたものを、元日の朝に下ろし、汁で煮、歳神(年神)と人が一緒のものを食べる「直会(なおらい)」といわれている。

 雑煮で正月を祝うようになったのは室町時代といわれている。雑煮は、餅が臓腑を保養するところから「保臓(ほうぞう)」といい、本字は烹雑で、烹は煮と同じであるから雑煮になったそうだ。

 雑煮は地域によって色々な料理法がある。だしや具ひとつとってみても、実に様々だ。また、雑煮に餅を入れる地域は多くあるが、例えば香川県では、 餅の代用としてカンノメ(カンノメとは粳米八割、糯米二割をひいて小判型の団子にしたもの) と呼ばれるものを入れる。また元旦に餅を食べることを忌む餅なし正月の伝承も各地に残っている。

(※注4) 七草粥の風習は、一月七日の朝に七種の菜(芹=せり・薺=なずな・御形=ごぎょう・はこべら・仏の座=ほとけのざ・菘=すずな・すずしろ の春の七草 )の入った粥を食べる習わしのことをいう。

 現在でも全国的に行われている七日正月の行事で、邪気を祓うとされている。また、七草には様々な薬効があるといわれている。

 古くは子(ね)の日の遊びともいわれ、平安時代には正月最初の子の日に野に出て若菜をつむ風習があった。『延喜式』に見られる七種粥と、若菜摘みの古俗と、中国の人日(じんじつ)の行事が合わさり、七草粥になったのであろうといわれている。

 七草粥の習わしは江戸時代まではかなりに盛んに行われていた様だが、幕末頃の民間では七種のうち1、2種の菜を入れるだけだったとか。 今日でも 七草の種類は地域によって違いがあり、七種に限らない所もある。


スサノヲ (スサノオ)


◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(六)

2007年01月02日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(六)

 床の間に鏡餅を飾るのは、神への供物の意味がある。また、お屠蘇は不老長寿の薬効があるとされる薬草を調合した、屠蘇散を浸した薬酒である。

 雑煮には地方によって様々なパターンがありますが、必ず入っているのが餅である。鏡餅もそうですが、新年に迎える歳神(年神)の魂を示すと考えることもある。それは神に供えたお下がりを貰うという気持ちから来ている。

 正月の注連飾りに伊勢海老や橙、昆布を飾り立てるのは食物の豊作を祈念してのことである。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鏡餅とは、神供用の丸くて平たい餅のことで、「お供え」「お鏡」とも呼ばれている。もともと歳神(年神、大晦日に訪れた歳神は、人々に新たな生命力・福をもたらします。この生命力・福を「魂」といい、歳神によって与えられる魂なので「歳魂(としだま)」といいます)に供える餅(歳魂を具現化したものが丸い餅です)のことをいう。 昔から神仏の祭りには餅を供える慣わしが広くみられた。

 「鏡餅」という名は、鏡の形に由来する。古く、鏡は神の依るところと考えられ、神事に使われ宗教的な意味合いの濃いものであった。今日でも、神社の祭事には薄い鏡状の丸餅を供える所があるそうだ。

 鏡餅を供える場所は、床の間や神棚、仏壇、年棚といった所から、近年では住宅事情により多様化してきている。この鏡餅(神棚に祭った丸餅が始まり)から、歳神の霊力(歳魂)を得て、これを家人一人一人に分け与えて食し、霊力を体に取り込むという考たのだ。これが本来の「お年玉」とされてる。

 また、鏡餅の飾り方は、 三方(さんぽう)に奉書紙(四方紅)を垂らして敷き、譲り葉(後の世代まで長く福を譲る)と裏白(長命を表す)を載せ大小二つの鏡餅を重ね、その上に橙(家系が代々繁栄する)の他、串柿(幸福をしっかり取り込む)、昆布(よろこんぶの意味)、四手(御幣)、海老(えびの中でも最も立派なもの、腰が曲がるほど長寿を願う意味)、扇(末広)などを飾ったものが一般には知られているが、飾り方も地域や家によって違いがある。

(※注2)このような形(様式)になったのは室町以降といわれています。建築様式が寝殿づくりから書院づくりへ移り、床の間が設けられる様になり、床飾りとして広まったと考えられます。武家社会では武家餅(具足餅)といって、鎧兜などの具足をしつらい、その前に鏡餅を供えて家の繁栄を願うところも多くあった様です。また供えた餅を下げる日を鏡開きといいます。 一月十一日に行う所が多く「鏡あげ」「オカザリコワシ」とも呼ばれており、餅を叩き割って雑煮や雑炊にして食します(鏡餅は包丁で切ってはならず、手や鎚で割って小さくするのがしきたりです。これは「切る」は縁起が悪いからということで、そのため「開く」ということばを使います)。正月に鏡餅を供えることは一般化されていますが、地域によっては、正月の儀礼食に餅を用いず、芋や麺類を用いている所も少なくありません。

(※注3) お屠蘇とは正月に飲む、屠蘇散を浸した酒または味醂のことをいい、「屠蘇延命散」とも呼ぶ。一年の邪気を祓う祝い酒のことである。

 「屠」は退治する(邪気を払い寿命を延ばすといういわれがあり)という意味を、「蘇」は病を起こす厄神の意味があるという。「一人これを飲めば一家病無く、一家これを飲めば一里病無し」などといわれ、正月には一年の無病息災を願った。

 山椒、桔梗、肉桂、白朮、防風などを調合して紅絹袋に入れ、酒か味醂に浸す。古くから、「屠蘇祝う」と称して元日にはこれを一家の若い者から順に大中小三種の盃で頂き、無病息災を祈った。

 正月に屠蘇を飲むことは、中国の唐代まで遡る。 日本へは平安初期の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二四年)に伝えられ、宮中で用いられました。元日から三日間御薬を天皇に献じ、一献は屠蘇、二献は白散(白朮、桔梗、細辛を調合して温酒で飲む)、三献は度嶂散(麻黄、山椒、白朮、桔梗、細辛、乾薑、防風、肉桂を調合したもの)を入れたもので、「御薬を供ず」という。

 また、平安時代の貴族は屠蘇、白散のいずれかを、室町時代では白散を、江戸時代の徳川幕府では屠蘇を用いていたようだ。この風習はやがて庶民にも広まる。

 明治末頃は、年末になると薬種屋の店頭には延寿屠蘇散と書かれたビラが下がったそうだ。現在の屠蘇はかつての処方とは異なり、だいぶ飲みやすくなっている。


スサノヲ (スサノオ)