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◆アマテラス(天照大神)と伊勢神宮の謎(一)
◆◇◆皇室の祖神(皇祖神の源流)は、アマテラスか、タカミムスビか ・・・
日の神アマテル神は伊勢だけでなく、各地(山城・大和・摂津・丹波・播磨・対馬など、特に海人族によって)で祀られていた。本来日の神(ローカルな太陽神、プレ・アマテラス)は、農耕民・漁撈民の間で、かなり広く祀られていた神であったようである(大和国の鏡作坐天照御魂神社の祭神は天照国照日子火明命、他田坐天照御魂神社の祭神は天照御魂神、山城国の木島坐天照御魂神社の祭神は火明命、摂津国の新屋坐天照御魂神社の祭神は天照国照天彦火明大神)。
その中の有力な神に仕えるオオヒルメノムチ(大日■貴、大日女、大日妻、日神の巫女)が、後には天照大神として、皇祖神の首座を占め、高天原を主宰する神に昇華するのである(天照大神が宮廷で祀られるのは、奈良時代までなかったようである。『延喜式』の祝詞にもほとんど出てこないし、平安時代初めまで特別な祭祀もされていなかった)。
農耕儀礼の中に育まれた日の神信仰を集中・独占した王権の宗教的機能は、天皇の即位儀礼と関係の深い大嘗祭(タカミムスビは、大嘗祭の斎場に祀られる八神殿の主神であり、田の神あり、生成に関する霊力の神格化である)が、農耕祭儀を基本としている祭式であることからも明らかである。
もしかすると、初期ヤマト王権の段階の祖神であった神は、アマテラス(天照大神)以前に皇祖神としてタカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊・高木神=神の依ります神体木・神籬の神格化)が位置していたのではないだろうか。
神代史では、タカミムスビは葦原中国平定を命ずる神として、また天孫降臨の指令神として重要な役割を演ずる。このことからも、タカミムスビこそが皇祖神・アマテラス(天照大神)よりも原初の神で、高天原の主宰神と仰がれた段階があったと考えられる。
またオオヒルメノムチ(皇大神宮第一の別宮・荒祭宮の祭神・撞賢木厳御魂天疎向津姫=つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ?)は、この神に使える巫女であったとも考えられる。
ところが、ひとたびアマテラスがタカミムスビ(または、プレ・アマテラス=天照国照御魂神=男神)と合一化し、アマテラスが皇室の至高の祖神と信じられるにいたって、アマテラスの方が前面に浮かび上がってくる(ただ一人のアマテラス、ただ一人の皇祖神となっていく)。
タカミムスビの信仰は、弥生時代の農耕文化の導入と展開の中で育まれたものであろう(対馬の阿麻■留(あまてる)神社、対馬の高御魂神社、山城国乙訓郡の羽束師坐高御産霊神社、大和国添上郡の宇奈太理坐高御魂神社、大和国十市郡の目原坐高御魂神社など)。
では、アマテラス(天照大神)はそもそもどのような神であったのであろうか?(日の神アマテル神は各地で祀られてた。日の神に仕えるオオヒルメノムチ) いつ頃から皇祖神として祀られ、どのような経緯で皇祖神になったのであろうか?(雄略朝から継体朝を経て、天武・持統朝で確立)また、なぜに大和から遠い伊勢の地に遷幸・鎮座させられたのでしょうか?(大和の真東の太陽信仰の霊地・東国経営の基点、伊勢神宮は元は三輪山の遥拝所か) 天武・持統天皇と伊勢のアマテラスとの深い関係には何があるのでしょうか?(氏姓制社会から律令制国家への一大転換、神祇体制の確立) 伊勢遷幸伝承・伊勢鎮座伝承(豊鍬入姫巡行・倭姫巡行)は何処まで史実でしょうか?(後世の斎王制度の由来譚) 斎王と斎宮と神鏡、そして伊勢神宮の心御柱と神籬の祭祀は何を意味するのでしょうか?(大物忌と由貴大御饌、その秘儀の意味と起源、伊勢神宮祭祀の光と影の二重構造) 皇祖神・アマテラス(天照大神)と伊勢神宮には、このように多くの謎が隠されている。
スサノヲ(スサノオ)

◆「大嘗祭」、皇位継承の神秘的な儀式(二)
◆◇◆「大嘗祭」、悠紀殿・主基殿における宵・暁の御饌
大嘗祭(※注1)は、天皇即位の後初めて、亀占(亀甲の焼き具合によって物事を占うこと)によって定められた斎田・悠紀国と主基国の稲の初穂を神(一般には、皇祖・天照大神をはじめとする天神地祇とされるが、さまざまな説がある)に供えて、共に食する(神人共食)祭りである。その様式としては、毎年行われる新嘗祭とさほど変わりはないが(※注2)、天皇一代に一度代替わりに行う祭りのことを大嘗祭という。
大嘗祭は、内容的には大きく前儀、本儀、後儀とに分けられる。その中で本儀は大嘗祭の悠紀殿・主基殿において新天皇自らが執り行う神事で、采女の介添えで神饌を捧げ共に食し、その間に新天皇の拝礼、五穀豊穣などを祈る御告文の奏上などがある(※注3)。
しかし、このように日本最大の祭りである大嘗祭(新天皇即位後、その年の新穀をもって神々を祀るため執り行われる皇位継承の儀式)だが、実は祭神が判然としていないのである(祭神についての記述は、『令義解(りょうのぎげ)』職員令中の神祇官の条に見えるものと、同じく神祇令中の即位の条にあるものとの二カ条のみ。大嘗祭は、天皇の即位式の古い面影を留めている王権祭式であるが、古くはアマテラス=天照大神は祀られた形跡がない)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)歴代の天皇が即位されるときには、大嘗祭(だいじょうさい)が行われる。この大嘗祭は、新嘗祭とよく似ていて、神々と食事などをすることにより、そうした霊力を引き継がれる。
新嘗祭は、かつては名称も同じ大嘗祭といわれていた時代もあったほどで、大嘗祭で得た恵みの力を毎年「更新」するという意味が強い(正月の初詣の折に、古いお札を神社に納め、新しいお札をいただくのは、この霊力が衰えると考えるからである)。
また、大嘗祭は、稲作の生産(斎田の栽培)とその儀礼(初穂の直会)を柱とする「弥生稲作文化」を継承される儀礼でもある。「天津日嗣」となった新天皇は、アマテラス(天照大神)がこの国土にもたらした神聖な「斎庭の稲穂」によって誕生し、この「豊葦原瑞穂国」に稲作の豊穣をもたらしたのである。
「天津日嗣」は、まさにこの国土を神権的・宗教的に知食(しろしめ)し、生産を保証する存在なのである(特別な祭りによって神に認証され、呪術的威力を強化し更新する聖化儀礼である。儀礼は時代とともに、象徴化・形式化・短縮化されていく。往々にして、史料・文献ははその儀礼の機能が象徴化された新しい時代の思想により記されるので、その意味を探るには、その由来を説いた神話や後世の民間伝承や類似・類型の祭祀儀礼をもつ近隣の民族の伝承から類推する必要がある)。
(※注2)大嘗祭に用いる稲に選定された悠紀・主基両田の斎田には、抜穂使(ぬきほのつかい)が遣わされ、新穀の初穂を抜き取り、斎場に納めるとともに、白酒・黒酒の醸造や神服調製が行われる。また、本儀に先立って、悠紀殿・主基殿・廻立殿などからなる大嘗殿が造営され、前日には天皇の鎮魂祭が行われる。
儀式の枠組みでいえば、大嘗祭は新嘗祭と似ている。しかし、神事に用いる稲そのものが異なる。新嘗祭の稲は天皇直属の官田から採られ、大嘗祭の稲は在地の農民が耕作する悠紀田(ゆきでん)・主基田(すきでん)からのものを用いる。
つまり、どちらかといえば、朝廷の私的行事に近い新嘗祭に対し、大嘗祭は地方の公民の奉仕を前提とし、より公的な意味を持つ。また、新嘗祭は代行がきくが、大嘗祭は絶対に代行が許されないという決定的が違いがある。
(※注3)天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御されると、天の羽衣という湯カラビラを召して沐浴した後(外宮の豊受大神の出自神話の再演のようである)、明衣(きよぎぬ)の衣服に改めて、悠紀殿に渡られる。悠紀殿渡御の際、天皇は徒跣(はだし)で聖なる道を歩み、悠紀殿には神座として、衾・坂枕・沓が用意されている。天皇は自ら「宵の御饌(みけ)」という神饌・神酒を供される。
この悠紀殿(後の主基殿も同様)における親祭は、采女(うねめ)二人の介在によって執り行われ、天皇は神に神饌供進し、神と共食(神人共食)される。撤饌(てっせん、御饌を下げること)されると、天皇は再び廻立殿に還られ、改めて沐浴後、今度は主基殿に渡御になり「暁の御饌」が執り行われる。
スサノヲ(スサノオ)

◆「大嘗祭」、皇位継承の神秘的な儀式(一)
◆◇◆「大嘗祭」、神聖な皇位継承儀礼、天皇家最大の公的祭儀
「大嘗祭(だいじょうさい)」は、一般には「天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を以て自ら天照大神および天神・地祇を祀る大礼で、神事の最大のもの」(広辞苑)と説明されている。
さらに詳しく説明すると、「大嘗祭は、連綿として受け継がれてきた天皇霊(すめらみことのみたま)が次ぎの天皇に引き継がれること(「天津日嗣(あまつひつぎ、天津日継)」、皇太子のことを「日嗣の御子」という)によって、皇位が完成する事を、象徴的に表現する宗教的神事」となる(※注1)。
皇太子(日嗣の御子)が天皇になるための最重要な神事・最大級の秘儀が大嘗祭なのである。このような皇位継承儀式は、世界に類をみない日本だけの神秘的な神事だ。
七世紀後半の天武もしくは持統天皇の時点から、皇位の継承の時に親祭(しんさい)される新嘗祭(古代から稲の収穫祭であり、神に感謝を捧げるため、新穀で作った神饌と神酒を神に供え、共に食する祭りである)のみを、特に「大嘗祭」あるいは「践祚大嘗祭」と呼ぶようになったようである(※注2)。
このように、大嘗祭は、基本的には新嘗祭の収穫感謝祭としての農耕祭祀の側面を持っているが、そこには新しく即位した天皇が、前の天皇から「天皇霊(すめらみことのみたま)」の神聖な霊魂を継承するという最も重要な秘儀が行われているのである。
しかし、大嘗祭は天皇の皇位継承儀礼のうちでもっとも重要な祭儀(宮廷祭祀)であるにもかかわらず、その成立過程については、起源はもとより個々の儀式の由来や意義などにも諸説があってまだまだ謎が多く存在する(一般の説では、「大嘗宮の神座(寝座)に坐す祭神は天照大神及び天神地祇」とされているが、しかし古記録を見ても一切明らかにされておらず、大嘗祭最大の謎である)(※注3)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)大嘗祭は、践祚(即位式)と並ぶ天皇の皇位継承儀礼である。原型は、古代に民間でも行われていた農耕儀礼、新嘗の祭りといわれている。それが一世一代の公式皇位継承儀礼となるのは、天武・持統朝からのようである。
大嘗祭(だいじょうさい)は、「おおにえのまつり」、「践祚(せんそ)大嘗祭」、「大嘗会(だいじようえ)」などともいう。古代から続く天皇即位の儀式である。天皇が年毎の稲の初穂を、皇祖神・アマテラス(天照大神)に供えて共食する祭りを新嘗祭(にいなめさい)といい、それとほぼ同じ内容を、天皇一代に一度の大祭として行うのが大嘗祭である。
この祭りの古儀は古代の王権の歴史とともに古くかあったと考えられ、その淵源や原初的意味を農村の稲祭りや初穂儀礼、祖先の霊の魂祭りや鎮魂儀礼などに求めることができそうである。
(※注2)天皇は血統を受け継ぐだけでなく天皇霊を受け継いでいかなければならず、そのための儀式が大嘗祭とされている。しかも、この儀式はその一切が秘密のベールに包まれている。
先帝から新帝への王権の移行にともなう天皇家最大の公的祭儀でありながら、天皇一人の密室儀礼を中心に執り行われる秘祭である。天皇は、古来一貫して神を祀る存在だ。天皇の政治的地位や機能は時代によって大きく変化しましたが、神を祀る事においては些かも変わっていない。
また、天皇の祭祀の中心は、秋に行われる稲の収穫感謝祭である新嘗祭で、古代から現在にいたるまで、天皇の最も重要な祭りであり、天皇の即位に際しては、新嘗祭の大祭である大嘗祭が行われる。新嘗祭と大嘗祭は、天皇の宗教的な権威を支え、それを高める大きな基盤となっている。ともに、天皇が天皇であるための祭りだ。
(※注3)大嘗祭の儀式の大きな謎は、天皇がどのような神を祀っているのかということだ。皇祖神といえば、アマテラス(天照大神)となる。現に大嘗祭で祀られてはいるのだが、天照大神は別の場所に祀られている。
天皇は大嘗祭の中で、大嘗宮内陣に設けられた悠紀殿・主基殿の神座で新穀を供進し、さらに神に捧げた新穀を自らも食す。この、天皇から新穀を供進される神座に坐す神こそが大嘗祭の主祭神であり、天皇即位を認める(天皇即位の証となる)存在ということになるはずである。
しかし、この神の正体が明らかではなく、なぜか秘中の秘として秘匿されている。このことが大嘗祭の最大の謎なのだ。また、伊勢神宮の心御柱の祭祀との秘儀の共通性などから、物部氏の祭祀そのものが天皇によって踏襲されたとも考えられているのだが…。
スサノヲ(スサノオ)

◆「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(二)
◆◇◆「新嘗祭」、天孫降臨神話と「御直会の儀」、神話世界を神事儀礼によって再演(再現)
新嘗祭(にいなめさい)は、毎年十一月二十三日に全国の神社で行われる。宮中での新嘗祭は、天皇が神嘉殿において神々(天照大神をはじめ天神地祇)に感謝を込めて新穀(神饌)を奉るとともに、自らも共食される厳粛な祭りが行われる(※注1)。
二月の祈年祭(としごいさい)は五穀の豊穣を祈願するものであり、十月の神嘗祭は収穫の初穂を神々に奉る祭りであり、十一月の新嘗祭は、その年の収穫を神々に感謝する祭りである(新嘗祭の神饌=しんせんは、全国から献納された新穀が用いられる)。また、新嘗祭の前日・十一月二十二日には鎮魂祭が行われる。
新嘗祭の起源について、宮廷神話(『記・紀』神話)はこのように説明している。『日本書紀』神代巻で、アマテラス(天照大神)が皇孫・ニニギ命(皇孫天津彦火瓊瓊杵尊)の降臨に際して、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂(ゆにわのいなほ)を以て、また吾が兒(みこ)にまかせまつるべし」との神勅を下し、斎庭の稲を授けたと神話的由来を伝えている。
高天原で育てられていた穀物の稲穂が、皇御孫命により初めて葦原中国でも栽培され、これが我が国における農業の事始めとされるのだ(豊葦原瑞穂国)。歴代の天皇はこの天孫降臨の神勅を基に、この神恩に対する感謝の祭りとして新嘗祭が続けられているのである(天皇が五穀豊穣を神々に感謝するのが新嘗祭とされ、これに倣って全国の神社においても新嘗祭が執り行われる)(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)新嘗祭は、夕刻から深夜にかけて斎行される「夕の儀(ゆうのぎ)」と、深夜から明け方にかけて斎行される「暁の儀(あかつきのぎ)」から構成されている。当日、身を清められた天皇は、綾綺殿(りょうきでん)に出御され、純白の絹の御祭服(ごさいふく)を召される。
夕刻になると、天皇は、神嘉殿にお渡りになり、外陣(げじん)の御座に著御される。この間、膳舎(かしわや、神饌を調進する殿舎)から神嘉殿に神饌(しんせん、神への供物)が運ばれる(神饌行立=しんせんぎょうりゅう)。
神楽歌(かぐらうた)が奏される中、天皇は内陣(ないじん)にお進みになり、御座に著御され、お手づから箸を取られて、柏の葉を重ねて竹のひごで結った葉盤(ひらて)というお皿に神饌を御親供(ごしんく、天皇みずから神に供物を捧げること)される。
新穀から調進した神饌を天皇みずからお進めし、神々にお召しあがりいただく。御親供ののち、天皇は御拝礼され、ついで皇祖(こうそ、天皇の祖先)への御告文(おつげぶみ)を奏される。御告文が終わると、天皇は、神々に捧げられたものと同じ神饌の米と粟との御飯、御酒(白酒・しろき、黒酒・くろき)をお召しになる。
この儀を「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」といい、皇祖と飲食を共にされる(相嘗・あいなめ、共食・きょうしょく)新嘗祭の核心ともいうべき厳粛な儀だ。こうして御親祭(ごしんさい)を終えられた天皇は、神嘉殿を御退出される。続いて天皇は、同じく神嘉殿で深夜から明け方にかけて「暁の儀」 を御親祭される。
このように天皇は、夜を徹して、最高の鄭重さをもって神々をおもてなしになるのだ。
(※注2)ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)がアマテラス(天照大神)から斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けられて天降ったという天孫降臨神話に基づき、新穀を食する(きこしめす)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神と一体になることである。そういう意義をもって行われるるのが大嘗祭であり、それを年々繰り返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭だ。
また、新嘗祭、神嘗祭とも、新穀を捧げるという点では同じである。異なる点は、新嘗祭が天皇自ら供え物を行い、また、自らも食するということである。この違いが新嘗祭の大事な意義を示している。
つまり、新嘗祭は単にその年の収穫を感謝するだけではないということだ。天皇が神々と食事を共にすることにより、国に豊かな実りをもたらす霊力を身に付けることに目的がある。
『記・紀』神話によれば、アマテラス(天照大神)から豊穣の力を受け継いだ天孫・ニニギ命(日子番邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が日本を「平らかに」するために、高天原の地に降り立ったことから国作りが始まったとされている。そして、歴代の天皇は、そのニニギ命以来の豊穣の霊威を受け継いでいくのだとされた。
スサノヲ(スサノオ)