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◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(九)
◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(8)
日本列島は、面積に比べて南北に広いため、和辻哲郎がいうようにモンスーン的風土(和辻哲郎は、その古典的名著『風土―人間学的考察』の中で、アジアのモンスーン的風土、アラビア半島を中心にした砂漠的風土、そしてヨーロッパの牧場的風土という三つの類型を設定した)としてひと括りに捉えることには、多少問題がありそうだ。
太古の日本列島は樹相の分布をみても、照葉樹林(カシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類など)は日本列島の西半分を中心に分布し、東日本の大半は温帯落葉広葉樹林(ナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなど)に覆われていた。そのため、日本文化の源流を「照葉樹林文化」(※注1)だけで捉えるには無理がありそうである。
日本の中央高地から東北・北海道南部にかけて広がるナラ・ブナ林帯には、縄文時代以来、独自の農耕文化・生活文化が営まれてきた。ナラ林文化(ブナ林文化)(※注2)の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富なことである(クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ウバユリなどの採集)。
日光照射もあり植物種も豊富なため、狩猟対象となる動物(トナカイ、熊、鹿、海獣など)や漁撈の対象となる魚介(サケ・マスなど)も多くいた。これらの狩猟・漁猟・採集文化により、縄文文化はナラ林文化の下で発展しいった。
東北日本には、照葉樹林文化と融合し稲作文化を発展させた大和政権(稲作を基盤として成立した大和朝廷)が東漸するまで、まったく異なる文化が花開いていたのである(※注3)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」(ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を生みました)と呼ばれる。
日本の縄文文化は、主にナラ林文化(ブナ林文化)の下で、東北日本を中心に発展した(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれない)。
このように、日本の文化の源流(基層)には、東西二分する別々の文化圏があったとされている(方言・味覚など)。
(※注2)三内丸山遺跡をはじめとする最近の発掘調査は縄文文化と縄文人のイメージを大きく変えた。集落の中央には直径一メートルの太い柱を使った大型建物を作り、そしてヒスイや漆を加工していた。
クリを栽培し、周辺の森も人間が利用しやすいように管理していた。遠方から黒曜石や、琥珀などが運ばれ、交流・交易も活発であったと考えられる。定住生活が、本格的に営まれていたのである。
(※注3)東日本(ナラ林文化では、木の実-栗やくるみなどの堅花を加工して-は、そのまま食べられるので、冬の保存食として最適だったようだ)に比べて、西日本(温暖な照葉樹林文化では、木の実はアクが強く、そのままでは食べられなかったようであす)は食糧に乏しかったのか、日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で、東北日本を中心に発展した(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれない)。
スサノヲ(スサノオ)

今回は日本の太陽信仰と天皇家の祭祀について書くことにする。
この太陽信仰は全世界に見られるものである。
◆太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)

※太陽復活祭と鎮魂祭
古くは旧暦十一月中の寅の日に鎮魂祭が執り行われていた。新嘗祭の前日にあたる。この祭は、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」と密接な関係があるようである。
鎮魂祭には、宮廷の御巫(おかんなぎ)が「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」の天宇受売命のように、歌舞を行う。その際、歌われる神楽歌がある。
「ノボリマス、トヨヒルメガ、ミタマホス」「ミタマガリ、タマガリマシシカミハ、イマゾキマセル」「タマハコモチテ、サリタルミタマ、タマカヘシスヤ」などと、歌われる。その意味は、体から遊離し、死した日神トヨヒルメ(アマテラス・オオヒルメのこと)の魂を呼び戻し、復活させようとして、タマフリを行うということのようだ。
(タマフリ(鎮魂)とは、体から遊離した霊魂を招き返す呪術である(起死回生の呪法)。
冬至の太陽信仰(太陽がいったん死んで生まれ変わる日だとの信仰)と太陽祭祀は、世界的にある。その祭は、太陽の復活と再誕生を祈り、衰えた光熱を更新させ、一陽来復を図ろうとする意図を持つものである。クリスマスも後世にはキリストの誕生になぞられていますが、もとは冬至の太陽復活祭だったといわれている。
日本の古代社会でも、このような太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られる。特に稲作農業にとって太陽は欠かすことのできない根源的なもので、各地に点在した古代豪族は太陽の祭祀権を持つことが、執政権を誇示することでもあった。
日本の古代社会の太陽祭祀を考えると、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」は、大和朝廷が国家の根幹に関わる太陽祭祀権を掌握したことを表すものである。
しかも、『記紀』神話の「天孫降臨神話」で、天孫・ニニギ命(邇邇芸命)はアマテラス(天照大神)の孫とされ、太陽神の直系とされる。たぶんに、政治的意図をもつ『記紀』神話は、最も重要な太陽神の祭祀を、その子孫が連綿と受け継ぎ執り行うという、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」を生み出したのだ。
鎮魂祭もまた、そうした呪儀を日神の化身である日の御子・天皇に対して行い(伊勢の太陽祭儀と物部氏のタマフリの様式を取り入れて)、それを王権祭式化したのが始まりのようである。
※太陽の道
日本の古代社会では、太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られる。太陽神の祭祀に深い関わりをもった古代の遺跡が、一直線上に並んでいるということで、「レイライン・聖線」「太陽の道」と名付けられている(神島と斎宮跡、三輪山と淡路島の伊勢の森が、一直線上に並んでいます)。
スサノヲ(スサノオ)

◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(八)
◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(7)
東アジアの照葉樹林帯(※注1)では、採集や狩猟など山や森での営みには必ず山の神の加護を祈っていたようである。例えば、焼畑の造成(森林を伐採・火入れ)に先立っても山の神に供物と祈りを捧げてきたようだし、村の男たちが総出で狩猟に出かけ、獲物の多寡で豊凶を占う儀礼的狩猟の慣行も広くみられる。また、死んだ人の魂が、山の頂上へ上っていくとする宗教的観念があった。
こうした文化は照葉樹林文化(※注2)と呼ばれている。この照葉樹林文化の特色を生み出した生活文化の基層には、山と森への深い信仰があったことを窺い知ることができる。(※注3)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓を起点として中国・雲南省、長江以南、台湾を経て南西諸島、日本の南半分に至るまで、帯状に分布していた。
照葉樹林(年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、クスノキ、タブ、ソテツ、ツバキ類等の常緑広葉樹林)は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強く、いくら樹を切っても自然の状態に戻せば砂漠化せず、やがて常緑の森林に戻る。
昼なお暗い神秘の森の辺に住んだ人々が、心象風景として森の生命の息吹きのなかに、神々の世界を見い出したのである(神の宿る恐ろしい森とは、鬱蒼と樹木の茂る暗闇の照葉樹林の原生林であった。そうした森は、自然本来の生命力を持ち、人間にとっては恐ろしく凶暴なものであったが、神秘的な生命力の宿る神々の坐す森や山であったのである)。
(※注2)照葉樹林文化には、各民族に共通する多くの文化的要素がある。イモ・雑穀・茶の栽培、綿花・柑橘類の栽培、養蚕、漆器の製造、麹を用いた酒・味噌の醸造、豆腐・納豆・餅・な熟れ鮓の製造など多岐にわたる。
またその後、焼き畑農耕や大豆発酵食品のみならず、神話や儀礼・習俗(ハレの日に餅を食べる習慣や歌垣などの生活文化、麹酒は山の神への祈りに欠かせない供物であった)など、精神文化の共通性も知られるようになり、いまや日本の深層文化を形成するものと考えられている。
さらに照葉樹林文化の基盤はイモ・雑穀類を主とする焼き畑農耕であるところから、稲作文化誕生の母胎となった文化であるとする考えもある。
(※注3)照葉樹林文化の特徴を一言でいえば「循環と共生」ということになる。この文化の地帯では、狩猟採集と小規模な栽培を生活の基本としていたため、森や水がもたらす恵みとその再生力に見合った程度の生産活動しかしてこなかったと考えられる。
そして森や水辺の動植物や滝、樹木、岩石等に八百万神の存在を認め、獲り過ぎや行き過ぎた開発は祟りを被る行為として厳しく戒めていたようだ。このような多神教的な信仰形態は地域社会に異文化・異端を受容する風土(寛容さ)を生み、多様な価値観の中で共に調和して生きていこうとする精神が育まれていたと考えられる(共生の精神)。
スサノヲ(スサノオ)