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◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(四)

2006年09月12日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(四)

◆◇◆仲秋の名月(旧暦八月十五日)、月祭り(陰暦九月十三日)
 陰暦九月十三日には宵から姿を現わす月のもと、秋の収穫を神々に感謝する月祭り(月を祀る神祭り)が行なわれ、酒を神と酌み交わして楽しむ風習が生まれた。中国では古来、陰暦八月十五日を「仲秋節」とし「観月の宴」を催していた。

 これが奈良・平安期の日本に伝わり、宮廷では陰暦八月十五日の夜の「仲秋の名月」と、陰暦九月十三日の夜の「月祭り(月を祀る神祭り)」と、二つの月見が催されるようになった。

 種々の供物を供えて名月を賞で、月見酒を酌みながら、詩歌管弦、舞楽、歌合せなどを行い、あるいは風流な前栽(せんざい=庭の植え込み)をつくり、広大な池泉に船を浮かべて月見をするなど、洗練された風雅な遊びと化していった。

 鎌倉・室町時代になると武士が台頭し、庶民も次第に力をつけるようになって、月見の風習は武家や庶民へとひろがり、再び古代の農耕儀礼(※注1)と結びついた風習に返っていったようである。

 たわわに稔った稲の初穂(これが後にススキに変わったといわれている)、里芋、枝豆、団子と共に、新米で醸した酒を供え、神々に豊作を感謝し、月見酒を神と酌み交わす行事が定着した。その後、月が出る前に空が明るくなる「月白(つきしろ)」は、仏達の御来迎だと考えられるようになった(※注2)。

 また、いにしえの日本人の月に寄せる想いは熱く、たくさんの美しい言葉を生み出した。十五夜への期待がふくらむ前夜は「待宵(まつよい)」、月は「小望月(こもちづき)」、待ちに待った当夜、雨や雲で見えないことを「雨月(うげつ)」「無月(むげつ)」などと称し、日毎に表情を変える月の風情を愛でてきた。

 こうした風情は、「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月」(中秋の名月がすばらしいのは、秋になると空気が乾燥し、月が鮮やかにみえるからだ)などといって月は古くから詩吟や俳諧の題材にもされてきた。

 さらに、十五夜から日がたつにつれて少しずつ欠けてゆく月を神聖視し、次第に遅くなる月の出を、十五夜の次の月は「十六夜(いざよい)」、十七夜の月を「立待(たちまち)」、十八夜の月を「居待(いまち)」、そして十九夜の月は「寝待(ねまち)」または「臥待(ふしまち)」、二十夜の月は「更待(ふけまち)」・・・、また二十三夜の月「二十三夜待」と続く。

 このように、ひたすら月を待つしきたりが生まれた。「十三夜」は、翌月の陰暦九月十三日の月をいい、枝豆や栗を供えてお月見する、最後の名月である。こうして日本人は自然と心を通わせ合い、宴(風雅な遊び)を楽しんできたのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)暦のない昔は月の満ち欠けによっておおよその月日を知り農事を行なっていた。そこで、十五夜の満月の夜は祭儀の行なわれる大切な節目でもあった。地方によっては稲穂を供える「稲草祭」や新しく採れた芋を供える「芋名月」などの風習もあり、農民の間では農耕行事と結びついて収穫の感謝祭としての意味も持っていた。特に芋(里芋)を供える風習は、それが主食だった縄文時代にまで遡るといわれている。

(※注2)民俗学者の折口信夫は「お月見に信仰の意味合いがあるのは、月が出る間際の空のほのかな明るみ(「月白(つきしろ)」)に、左右に観音・勢至両菩薩を従えた阿弥陀如来の来迎を拝することができると信じたから」と考えていた。夜が更けて出る月を神聖視して、陰暦八月十五日の月「十五夜」を一番としたが、前夜、陰暦八月十四日の月を「待宵(まつよい)」、満月の翌日の月を「十六夜(いざよい)」などと称して信仰と観賞の対象とした。


スサノヲ(スサノオ)


◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(三)

2006年09月11日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(三)

◆◇◆仲秋の名月(旧暦八月十五日)、十五夜「芋名月」と十三夜「豆名月」


 仲秋の名月の日、全国各地の神社では、秋の風情を楽しむ観月祭(かんげつさい)が行われる。また、十五夜に次いで月が美しいといわれた十三夜 (旧暦九月十三日) にも、月見の宴が催された。里芋とつながりのある十五夜を「芋名月」と呼ぶのに対し、豆、栗の収穫時期と重なる十三夜を「豆名月」、「栗名月」ともいい、これらはお菓子の銘にもなっています。なお、「片見月 (かたみづき) 」といって、十五夜だけを鑑賞して、十三夜を見ないことを忌む考え方も江戸時代後期には見られた。

 秋は無事に育った稲を収穫する喜びの季節である。各地の神社では、秋の収穫を感謝する秋祭りが行わる。秋祭りでは、その年初めての新穀=初穂(はつほ)を神さまに感謝の気持ちを込めてお供えする。神さまへのお供物を初穂と総称するのはこのことに由来する。これから全国で、秋祭りが行われていく。

◆◇◆仲秋の名月(旧暦八月十五日)、満月と祭り、満月信仰と観月民俗

 月見については、いまでは中秋のものだけが特別扱いされるだけだが、もともとは毎月の満月が特別な節目(祭り、ハレ)であったようだ。旧暦一月十五日に小正月というものがあるが、実は元旦の正月は官製のもので、民衆レベルでは小正月こそが正月である。民衆レベルでは毎月の中心は満月の夜であったのだ(古来より、月見は毎月の「小さな」正月であった)。

 古代、月が全く出ない夜というのは、恐ろしい物の怪(鬼や魔物)の住む闇の世界であった。闇夜は、古代人にとって何よりも怖いものであったのである。そうしたとき、人々は一所に集まり、一晩中騒ぎまわって闇の恐ろしさを紛らわしたという。

 それだけに明るい月が上って、煌々と住居の中まで照らしてくれる夜は、どんなにか人々を安らげたことであろう。月の満ち欠けを暦代わりにして農耕を営んでいた古代人にとって、月は農耕の神として信仰の対象であり、月に寄せる想いは今日の私たちが考える以上に深いものがあったようだ。


スサノヲ(スサノオ)


◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(二)

2006年09月10日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(二)

◆◇◆仲秋の名月(旧暦八月十五日)、名月を観賞する習慣、古来からの農耕儀礼

 仲秋の名月(旧暦八月十五日)には、各地でお月見の行事(すすきや団子などを供え月を観る行事)が行われる。仲秋とは八月のことで、満月が十五日にあたる(※注1)。古来中国では、十五夜を「仲秋節」と称し、月餅(げぺい)などを供えて月見をする風習があり、それが奈良時代にわが国に伝えられたとされている。平安時代、貴族の間では十五夜の満月をめでつつ詩歌や管弦を楽しむことが盛んになった。次第に武士や町民へと広がっていった(※注2)。

 しかし一方では、中国から伝わる以前に、わが国独自の農耕儀礼が行われていたという説もある。暦がなかった時代(この行事の起源はかなり古く)、農事は月の満ち欠けによって進められ、なかでも最も大切な節目とされた十五夜(陰暦八月十五日の満月)には、稲作が伝わる以前からよく食されていた里芋の収穫の感謝祭などが行われていた。元来は豊作の象徴である満月に秋の七草や団子、季節の野菜などを供えて、月を祭る神祭りの日であったと考えられている。

 団子は、古くは日本の代表的食物で、ちょうどこの頃出る里芋を炊いて供えたのが原型とされ、秋の名月を今でも「芋名月」と呼びならわし、里芋などを供える地域が多いのは、その名残といわれる。現在、関東の丸形のだんごに対し、関西では里芋形のだんごが供えられるのも、月見の古い形態にちなんだもののようだ。また、すすきの穂を供えるのは稲穂の変化した形ともいわれている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)一年には「春夏秋冬」の四季があるが、旧暦では三ヶ月毎に季節が変わり、「一・二・三月」は春、「四・五・六月」は夏、「七・八・九月」は秋、「十・十一・十二月」は冬となる。そしてそれぞれの季節に属する月には「初・中(仲)・晩」の文字をつけて季節をさらに細分するのに使った。

 たとえば旧暦四月は「初夏」となる。このように当てはめると、「八月」は秋の真ん中で「仲秋(中秋)」となる。旧暦は太陰暦であるから日付はそのとき月齢によく対応しますから、月の半ばである十五日はだいたいにおいて満月になる。新暦では九月中頃過ぎにあたる。

(※注2)このような月の美しさを観賞するという美意識は、西欧などにはあまり見られない。元々中国の習俗であったが、日本の豊かな自然風土と四季移ろいの中で、日本独特の文化を作り上げた(日本という風土の中で、季節の移り変わりを感じ取り、それを楽しむ。日本人が持ちえた繊細で豊かな感性である)。

 八月十五日の夜の月を観賞するのに、里芋の子の皮をつけたままで蒸した衣被を盛って供えたところから「芋名月」と呼ばれた。宇多天皇が寛平九年(八九七年)、宮中に観月の宴を催されたのが発端となり、月見に団子を供える習慣が出来、芒、芋等と共に三宝に十五個盛る。今日の月見だんごは、これに由来したものだ。

 次第に武士や庶民へと広がり、月神や玉うさぎの絵像を掲げ、日が暮れかかると、月の出る方向に台を据える。そして、秋の七草を生け、酒・団子・里芋などをお供えし、女性は月に向って礼拝したのち、宴を開いた。又、旧暦九月十三日の夜を「後の月」といって枝豆や栗を供えた。仲秋の名月とは趣きも異なる日本特有の行事である。これを「豆名月」と呼ぶ。


スサノヲ(スサノオ)


◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(一)

2006年09月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 21:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆秋の風情、仲秋の名月、月見と十五夜(一)

◆◇◆仲秋の名月(旧暦八月十五日)、月見と十五夜 、月の風情を愛でる

 お月見はやっぱり秋、深く澄んだ天空にぽっかりと浮かぶ月・・・。空気が澄む秋は、月をさらに美しく深く鮮やかに見えるからであろうか。

 詩歌の世界では、古来「月」といえば、秋の月を指す。これは、「花」といえば、春の桜を指すのと同じである。そして、「名月」といえば、陰暦八月十五日(新暦では九月中旬、今年は十月六日)夜の「中秋の満月」、「十五夜」をいう。できれば、先人にならって風雅に月を眺めてみたいものだ。

 いにしえの日本人の月に寄せる想いは熱く、たくさんの美しい言葉を生み出した。十五夜への期待がふくらむ前夜は「待宵(まつよい)」、月は「小望月(こもちづき)」、待ちに待った当夜、雨や雲で見えないことを「雨月(うげつ)」「無月(むげつ)」。

 そして十五夜の次の月が「十六夜(いざよい)」、十七夜の月を「立待月(たちまちづき)」、十八夜は「居待月(いまちづき)」、そして四日目の月を「臥待月(ふしまちづき)」と呼び、日毎に表情をかえる月の風情を愛でてきた。

 また陰暦九月十三日の月を「十三夜」「名残りの月」と呼び、十五夜とならべて祭る習俗もあり、どちらか片方の月しかみない「片月見(かたつきみ)」は縁起が悪いという地域もある(十三夜を見ないことを忌む考え方は江戸時代後期にも見られた)。「栗名月」の名もある十三夜の風習は、中国にはない日本独自のものである。


スサノヲ(スサノオ)


◆メッセージ2

2006年09月09日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 15:00 Comments( 0 ) スサノヲ(スサノオ)の日本学



◆メッセージ2

 日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れだが)、経済的には大国になりました。

 しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。

 海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題があるが)。

 日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのことに日本人自身が気付くことではないかと思います。
 
 元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。

 日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。

 つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。

 自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。

 こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。

 二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。

 つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。

 日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。

 これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもある)。

 また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。

 「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。

 ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。

 いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。

 そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにある。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのだ)。

 日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスションや示唆を与えてくれるかもしれません。


スサノヲ(スサノオ)