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◆「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(三)
◆◇◆重陽の節句(九月九日)、「栗の節句」「お九日(おくんち)」
菊と共に「重陽の節句」に関りの深いものに、その頃採れる栗があえう。中国にも重陽に栗を使った料理を食べる風習があるが、日本でも、重陽を一名「栗の節句」と呼んで、栗飯を食べる日としている地方がある(旧暦の九月九日というと新暦では十月にあたり、ちょうど田畑の収穫も行われる頃、農山村や庶民の間では、初穂を神仏に供えたり、栗ご飯を炊いて神仏にお供えして祝う)。
また、民間では「お九日」(おくんち)といって収穫祭の一環とする風習もあるようだ。「お九日」は九月九日を神の日、十九日を農民の日、二十九日を町民の日などと言って、神酒に菊の花を添えて、餅をつき(ヨギを入れたりする)、栗飯を炊いて神に感謝する稲の刈上げの祭りである。「お九日」に茄子を食べると中風にかからないとも言われている。
◆◇◆秋の農耕儀礼、八朔(はっさく・九月一日)、風鎮祭(ふうちんさい・九月上旬)
旧暦の八月朔日を八朔(はっさく)と呼んでいたが、新暦になって九月一日の行事になったが、「田面(たのも)節句」ともいう。「八朔たのもに出ん穂なし 九月九日に青田なし」といって、田を回って穂の出たことを賞めて、豊作を祈って「田のも団子」をつくり神仏に供えて感謝した。
農村では、八朔と二百十日は農家にとってはいちばんたいせつな時期であった。また、地域によっては、九月上旬、風鎮祭(ふうちんさい)が行われる。稲の穂が出る前あるいは出揃った時期が、二百十日や二百二十日の大風の季節と重なり、ことのほか農家の関心が強いことを意識した、農耕儀礼と考えられる。
◆◇◆豊かな自然風土と四季の移ろいの中で育まれた「年中行事」
太古より、私たちの祖先は、日本列島の豊かな自然風土と、季節ごとに変化する四季の移ろいの中で、恵み(恩恵)をもたらしてくれる自然に、大きな力の働きを感じ取っていた(プリミティヴな神観念)。そして、そこに住む我々の祖先の日本人は、農耕を生活の基盤に据えながら、さまざまな文化や伝統を育んできたのだ。
春夏秋冬の四季の変化の中で、豊作(豊穣)への祈りと感謝を捧げながら、毎年繰り返されるたくさんの民俗行事や伝統儀礼は、しだいに「年中行事」となりさまざまな習俗として今日に至りるのである。
こうした民俗行事や伝統儀礼の中には、日本の固有の行事もあるが、外来の行事が習合したものも数多くある。私たちの祖先は、こうした民俗行事や伝統儀礼を生活の一部として受け継ぎ守り伝えてきたのだ。
豊かな自然風土の中で育まれた祖先以来の文化(四季折々の年中行事・伝統儀礼)は、明治の改暦や時代の推移にもかかわらず、今日に至るまで連綿と生き続け、私たちの生活に活力と潤いを与えてくる。これからも、こうした民俗行事や伝統儀礼、祭りを大切にしていきたいものである。
スサノヲ(スサノオ)

◆「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(二)
◆◇◆「重陽の節句」(九月九日)、「菊の節句」「菊の節供」「菊の宴」
重陽の節句は別名「菊の宴」(平安時代には、観菊の宴が催され、詩歌など読み、菊の花を酒に浸した菊酒を酌み交わす)ともいい、古くから宮中に年中行事の一つとして伝わってきた。菊は翁草、齢草、千代見草とも別名を持っており、古代中国では、菊は仙境に咲いている花とされ、邪気を払い長生きする効能があると信じられていた。
その後、日本に渡り(菊は大和時代に中国から渡った)、古くより厄災祓いの日として、菊酒を飲んだり、菊の香と露とを綿に含ませ身をぬぐうこと(※菊の被綿・きせわた)で、長寿を保つともいわれ、不老長寿を願う行事として貴族のあいだで定着したようである。
これは、菊の持つたくましい生命力に少しでもあやかりたいというのが人々の願いだったのだ。※菊の被綿は、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でたりもしたといい、枕草子や紫式部日記の中でもその風習を窺うことができる。
紫式部(『源氏物語』)は、自らの歌集『紫式部集』にこんな歌を詠んでいる。「菊の花 若ゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」 また、清少納言の『枕草子』には、「九月九日は、暁方より雨すこし振りて、菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされて」という一節があり、平安朝の重陽の節会の様子を伝えてくれる。
さらに、『万葉集』には「百代草=菊」として登場し「父母が 殿の後方(しりへ)の 百代草(ももよぐさ) 百代いでませ わが来たるまで」(生玉部足国・いくたまべのたりくに)、『古今集』の頃から「菊」の文字として現れる「心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花」(凡河内躬恒・おおしこうちのみつね))。
また、花札で九月の役札には菊の花とともに「寿」と書かれた盃が描かれているが、これは菊酒の信仰を受けたものである。これら菊に対する信仰は、やはり中国の故事に由来している。周の時代、「菊慈童」(きくじどう)という名の男が、あるとき菊の露が落ちて谷川となっているところを見つけた。その水を汲んで飲むと、甘露のように甘く、心がさわやかになり、やがて仙人となって八百歳まで長生きしたという。
また、菊の花は皇室の紋章であり、日本を代表する花の一つだが、もとから日本にあったわけではない。奈良時代に、薬用として中国からやってきたのである。室町時代には、食用としてもさかんに栽培された。
菊の家紋は平安時代から宮中で使われはじめ、特に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が好んで使ったという(鎌倉時代に後鳥羽上皇が衣服や刀剣までこの文様を用いたことに始まると言われています)。
その後、江戸時代までは一般庶民でも菊紋を使っていたが(貴族にしろ武士にしろ、菊の文様を好んだのは、中国の菊慈童伝説「100年を経てなお童顔の仙人で在り続けた」等の故事にちなんで、延命長寿の霊力にあやかりたいと言う願いの現れであったようである)、明治二年に禁止され皇室だけの紋章に決まった(菊が皇室の紋章として制定されたのは明治二年で、意外に新しく天皇家は十六花弁の八重菊、皇族は十四花弁の裏菊と定められた)。
スサノヲ(スサノオ)

◆「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(一)
◆◇◆「重陽の節句」(九月九日)、不老長寿を願う行事
陰暦の九月九日は陽(陰陽の陽)の数字の重なる日(中国の重日思想から発した祭日。重日とは月の数と日の数が同じ数字となる日付で、めでたい特別の日付と考えられた)であり、中でも九は陽数(奇数は縁起のよい陽の数とされてる)の最大値(九は一桁の奇数としては一番大きな数なので「陽の極まった数」として陽数を代表する数と考えられ)である九が重なることから、「重陽(ちょうよう)」の節句(「重九(ちょうく)の節供」とも呼ばれる)として五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)の中でももっとも重んじられてきた。
中国ではこの日、茱萸(しゅゆ、和名:かわはじかみ)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習があった(中国には古くから山に登って天と地の神を祀るという思想があった。始皇帝や漢の武帝が行ったといわれる「封禅の儀」の祭祀と通じるものがある)。
これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日になる。その後明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたというが、残念ながら今では私たちの日常生活とは縁遠くなってしまった。
さかんに行われていた重陽の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことが大きな要因のようだ(「日付」に固定された祭日なので仕方ないが、元は晩秋の頃の行事であった。伝統行事は、もっと季節感を大切にしてもらいたいものである)。
スサノヲ(スサノオ)