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◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(四)
◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(2)
加賀の潜戸を貫いた金の弓箭(黄金の矢)とは、的島の東から射しこむ太陽の光線(黄金の矢を持つ太陽神)を比喩したものとされている(※注1)。そこから、黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞穴(※注2)に矢を放つとは、太陽神とそれを祀る巫女の交合の儀式と考えられている(※注3)。このような加賀の潜戸という自然の造形が、壮大な説話を生み出したのだ(本来は闇見の国の神話か?)。
さらに古代には、佐太川を境に、西を狭田の国、東を闇見(くらみ)の国と別個の小国家が成立していたようだ(国引き神話にも登場する)。ところが、この二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになる。それは、もともと闇見の国を代表する祖神の社(久良弥社=くらやみのやしろ)があったのだが、狭田の国(佐太大神)の勢力に飲み込まれた(闇見の国の神話が狭田の国の神話に飲み込まれた)結果なのかもしれない。
すると、加賀の潜戸の説話で、「佐太大神」としているのは、実は、「佐太御子神」の誤伝で、もともと麻須羅神こそ「佐太大神」(※注4)であったのかもしれない。即ちこの説話は、古くは狭田の国の「佐太大神」が矢になって、闇見の国のキサカヒメ命(枳佐加比売命・支佐加比売命、神魂命の御子)のもとに通い、その結果として「佐太御子神」の誕生を見たとする説話であったと思われる。結果、二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになるのだ(狭田の国が闇見の国へ勢力を伸張したことの反映)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)新潜戸から見た的島の方向は夏至の日の出の方向にあたり、反対に的島から見た新潜戸は冬至の日没の方向にあたる。夏至の朝日が生、冬至の夕日が死を象徴するものと考えられていたようだ。この説話には、神婚説話や日光感精説話が見て取れる。
(※注2)洞窟(大穴)で生まれたということで、この佐太大神とは実はオホナムヂ命(大穴牟遅命・大穴持命)のことではないかとする説もある。しかし、オホナムヂ命(所造天下大神大穴持命)を奉ずる勢力による出雲統一の以前に、この地には佐太大神の勢力圏であったようだ。神々の通い婚の説話は、オホナムヂ命に代表されるが、加賀の潜戸の説話のように佐太大神の通い婚の説話があっただ。
(※注3)元来、出雲国の佐太大神の原質は太陽神(天照神)であったのであろうか。太古より、わが国の太陽信仰は広く行われており、各地に所在する天照神(プレ・天照大神)もそうであり、大和の三輪山の山頂にも太陽神を祀る社があり、『日本書紀』(応神記)のアメノヒボコ(天之日矛・天日槍、新羅の王子)も太陽神とされている。
(※注4)佐太大神は狭田の国の祖神である。『出雲国風土記』には、この狭田の国の東部にあった秋鹿郡の神名火山の条に「所謂佐太大神の社は即ち彼の山の下也」とある。現在の佐太神社の位置からすると、きわめて不自然だ。神名火山(現在の朝日山)の下にあったのが「佐太大神の社」(神名火山の山容を仰ぎ見る地から、銅剣と銅鐸が同時に出土)で、現在の佐太神社は本来「佐太御子神の社」(神名火山の山容を仰ぐことさえできない所に鎮座)と考えたほうが辻褄が合いそうである(すんなりと解釈できる)。
スサノヲ(スサノオ)