
◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(八)
※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。
◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、丹後・山城-1
京都府には北部から南部まで新羅関係するの神々が祀られている。北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。南部の京都盆地には「素盞嗚尊・牛頭天王」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い松尾大社、賀茂神社がある。
丹後地方は日本海に面し、古来から大陸や半島との往来が頻繁にあった。またこの地方は弥生時代には王国があったといわれている。特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祀ったといわれる。
さらに丹後地方に隣接する出石郡には、新羅の渡来人である天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に色濃く残る。
丹後地方の若狭湾に沿った地域は、新羅系渡来人である天日槍や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)など伝承と共に、伊奨諾(いざなぎ)、伊奨冊(いざなみ)神話から始まり、山幸彦(天火明命(あめほあかり))の天降り伝承をもつ冠島や海人(あまべ)族の系図をもつ籠(かご)神社などがある。
丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。『和名抄』に、タニハノミチシノリ(田庭道後)とあり、南の大和からみて北側の奥にあるという意味であろう。
丹波は“たには”といわれ、豊受大神(穀物神)が初めてこの国に鎮座して神饌米を供したことから田庭と書かれたという。古代の「たには」国は、丹後、丹波、若狭、但馬を含む大国で、日本海を往来した海人族が大陸文明を取り入れた先進地域を形成していたようだ。
丹後半島には古代の伝承や説話が多く残っており、古代遺跡も多い残っている。特に天孫降臨と類を同じくする渡来人の漂着神話や伝承は多い。そして、数多く存在する神社は、弥生時代から古墳時代にかけての古代祭祀遺跡や古墳をその境内にもっているものも多い。
伝説で有名な神社には、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに来た徐福を祭る新井崎神社(与謝郡伊根町)、浦島と乙姫伝説(『日本書紀』雄略天皇二十二年)が伝わる宇良(浦島)神社(与謝郡伊根町)、更に、羽衣伝説で有名な乙女神社(中郡峰山町)や、矢田、波弥、名木、枳(からたち)の各神社(中郡峰山町)がある。
さらに、彦火火出見尊(山幸彦)を祭神とする元伊勢の籠(この)神社(雄略天皇が天照大神を伊勢に祀る前には当地に祀られていた)がある。この元伊勢といわれる籠神社の参道には天の橋立であるが、伝承によると、天にあった男神・伊奨諾大神が、地上の籠(この)宮の磐座(いわくら、太古の斎場)に祀られた女神・伊奨冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子(はしご)を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったと伝えている。
大国主命が沼河姫と共に当地に住んだ時、姫が病に罹った時、少名彦命が治したという伝説に基づく小虫神社、大虫神社(与謝郡加悦(かや)町)。この加悦町は伽耶を意味し、朝鮮半島の人(高天原といわれる)の渡来してきた町であるという。
スサノヲ(スサノオ)
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