
◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(七)
※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。
◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越前)と若狭湾-2
美浜町菅浜(敦賀半島の西側)に鎮座する「須可麻(すかま)神社」という新羅系の有名な神社があり、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれている。『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である(湖東の坂田郡息長村を中心にした勢力)。
『美浜ひろいある記』によると「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へ持ってきた」とある。
また、小浜市下根木(しもねごり)には白石(しらいし)神社が鎮座する。白石も新羅からの転化(白木・白城・白子・白石などと変わる例が多い)であるといわれ、新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。
さらに、小浜市から滋賀県今津方面に向かうと若狭媛神社があり、その奥の巨石には「鵜の瀬」(東大寺二月堂「お水取」行事の源泉)なる場所があって「鵜の瀬大神」を祀っている(若狭彦の神=彦火火出見尊=彦天火明命=山幸彦=饒速日尊?と若狭姫=豊玉姫命の神が降臨したという)。
越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤であった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、あるいは継体天皇と係りのある越前地方は、朝鮮半島や大陸との往来で渡来文化が盛えた同一文化圏であった(古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住)。
日本の各地には「しんら神社」と呼ぶ神社もあるが、これらは近江国大津にある園城寺(三井寺)の新羅(しんら)神社と何らかの繋がりを持つ神社、即ち園城寺から勧請されたり、新羅三郎義光やその子孫、或いは三井寺の開祖・智証大師円珍などとの関係があると考えられている。
一方、近江の園城寺と直接の繋がりが無いと思われる新羅神社は「しらぎ神社」と呼ばれており、それらの神社には新羅ないし新羅系渡来人に係る伝承が残っている(中には、神功皇后の三韓親征説話に係るものも多い)。
さらに今庄町合波には、武内宿禰(朝鮮渡来系の豪族の共同の「父」としてのイメージか?)と係りの深い白鬚神社があり、祭神は武内宿禰尊・天御中主神・宇賀御霊神・鵜葺草葺不合尊・熊野大神・豊受大神・大己貴命・猿田彦命・春日大神・秋葉大神・金山彦命・土不合命・八幡大神・清寧天皇・吉若大子だ。
応神天皇が武内宿禰と共に敦賀の笥飯(けひの)大神を拝んだことなどの説話からすれば、今庄地方も越前の一地方として大きな一つの文化圏の中にあったと考えられる。すると、高麗系や新羅系の渡来人が混在していたのかも知れない。当地方の神社は信露貴彦・白城・新羅など、社の由緒や呼び名が同一であったことは、古代においてはこれらの地域が同一の生活圏であったことを示すものと考えられるのだ。
スサノヲ(スサノオ)
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