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◆桃の節句とひな祭り(二)
◆◇◆桃の節句と雛祭り、江戸元禄時代に日本の庶民階級にも行事として定着
そして、庶民階級にも桃の節供(桃の節句)の習慣が浸透し始めたのは江戸時代である。
一般庶民(ことに農民)にとっては桃の節供(桃の節句)を過ぎると秋の収穫期まで続く農作業の季節となる。
楽しみの少ないこの時代、これから始まる辛い労働に備えて十分に休養をとり、また楽しく遊ぶという意味で「磯遊び」や「浜下り」という磯や砂浜で潮干狩りのような遊びをしたという。おそらく「浜で遊ぶ」ということは、元々の「水に入って禊ぎする」という本来の行事が姿を変えたものだと思う。
現在でも桃の節供(桃の節句)には蛤を食べる習慣が残っているが、そういえば、旧暦の三日と言えば、海の潮は大潮に近く、潮干狩りにはもってこいというのもあったのかもしれない。この辺も「磯遊び」の時代の名残かもしれない。
現在の桃の節供(桃の節句・雛祭り)の形は元禄時代にほぼ完成したといわれている。この時代は庶民の経済力が著しく増した時代で、経済的に余裕の出来た庶民が競って豪華な雛飾りを作るようになり、雛壇にたくさんの人形を飾る者も現れ現在に至る。
またこの時代、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃんの誕生を祝う「初節句」の風習も生まれて、桃の節供(桃の節句・雛祭り)はますます盛んとなった。
江戸市中には雛市(ひないち)が日本橋十軒店(じゅっけんだな・今の室町)や茅町(かやちょう・今の浅草橋)など各所に立って大変にぎわう。
またこの頃から付属の雛人形や雛道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られるようになっようだ。幕府は雛人形の華美を禁じるお触れを再三出している。
明治時代に入ると新政府は従来の節句行事を廃止して新しい祝祭日を定める。しかし、長い間の人々の生活に根を下ろした行事は簡単にはなくならず再度復活する。
大家族で一つ屋根の下に暮らしていた昔の人々は、こうして桃の節供(桃の節句・雛祭り)を祝うことで、情緒のある生活を送り、家族の絆の大事さを学び、育ててきたのであろう。
このように桃の節供(桃の節句・雛祭り)は日本の守り続けてきた伝統的な生活文化の一つである。
さて、桃の節供(桃の節句)の「桃」については旧暦当時の三月を代表する花であるということ、さらに桃は昔から邪を祓う霊木とされていた(桃にはそもそも中国伝来思想として、魔避けの力があるとされている)と言うことと、桃は「女性」を思い起こさせる花であると言うことから、女の子の節供には「桃の花」となったと考えられる。
桃の花が女性を象徴すると言う考え方は中国の影響かもしれない。周の時代に成立したといわれる詩経に王が佳い嫁を探す歌が有るが、その中に既に「桃の花のような女性」と謡われている。
こういった古典に親しんでいた平安貴族にとって女性の節供の花は桜でも梅でもなく「桃」だったのであろう。
スサノヲ(スサノオ)

◆桃の節句とひな祭り(一)
◆◇◆桃の節句と雛祭り、 奈良~平安時代に日本の貴族階級の行事として定着
旧暦の三月三日は「桃の節句」あるいは「雛祭り」である。五月五日の端午の節句が男の子の節句といわれるのに対して、三月三日の桃の節句は女の子の節句だ。
節句は本来は「節供」と書き、江戸時代には五節供として、法制化された式日(当時の祝日)があった。
それは、一月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午(たんご)、七月七日の七夕(しちせき)、九月九日の重陽(ちょうよう)の五節供(五節句)である。旧暦の三月三日の「桃の節句」あるいは「雛祭り」はその一つである。
現在の新暦の三月三日では桃の花には早すぎるようだが、旧暦でいえばもう少し遅い季節になり、ちょうどよい季節だった。
さて、三月三日は「桃の節句」と言われるが、もとは「上巳(じょうし)の節供」「元巳」といわれた。「上巳」とは旧暦三月の上旬の「巳の日」と言う意味で、三日に固定されていたわけではなった。
現在の様に三月三日に固定されるようになったのは中国の三国時代、魏(AD220-265)の国でのことで、日付が固定されてからは三月三日と「三」が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」ともいわれるようになる。
中国古代に於いては、上巳の節句には河で禊ぎを行い、穢れを落とし(これを「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という)、その後に宴を張る習慣があった。
また同じ日に「曲水の宴」も行われ、奈良~平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での「桃の節供(桃の節句)」の始まりのようである。
しかし日本ではどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代(かたしろ・人形)で体を撫で、これに穢れを移して河や海へ流すという日本的にアレンジされた行事として生まれ変わる(陰陽師を呼んで天地の神に祈り、季節の食物を供え、人形に自分の厄災を託して海や河に流す、無病息災を願う祓いの行事になる)。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域がある。
さてこの形代、いつの頃から公家や上流武家の間で上司への贈答の品となる。
こうなると質素な形代であったものが豪華な人形へと変化していく。やがて河に流すものでなく、家に飾るようなものも作られるようになった。
その一方で公家の子女が「雛遊び」として紙などで作った人形と御殿や小型の調度品(身の回りの道具)を並べて遊ぶままごとがあり、長い月日の間に、こうした行事と遊びの両者が融合して「雛祭り」「雛人形」への道を歩むことになったのである。
雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれいる。しかし、この室町時代頃から安土・桃山時代頃にかけては、まだ、今の桃の節供(桃の節句・雛祭り)の形式とはかけ離れた祓いの行事の日であった。
この日が華やかな女性のお祭りとなるのは戦国の世が終わり、世の中が平和になった江戸時代からのことだ。江戸初期の寛永六年(一六二九)、京都御所では盛大な桃の節供(桃の節句・雛祭り)が催された。
これ以降、幕府の大奥でも桃の節供(桃の節句・雛祭り)を行なうようになり、やがて、この習慣は上流から町民へ、大都市から地方へと広がっていくのである。
スサノヲ(スサノオ)