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◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(五)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「迎え火」「迎え盆」
お盆には、先祖・祖霊(※注1)や亡くなった人たちの精霊(※注2)が燈明を頼りに帰ってくるといわれ、十三日の夕刻に、仏壇や精霊棚(しょうりょうだな)の前に盆提灯や盆灯籠を燈し、庭先や門口で迎え火として麻幹(おがら=芋殻)を焚く。それが「迎え火」(※注3)である。
盆提灯をお墓で燈し、そこでつけた明かりを持って精霊を自宅まで導くという風習もあり、これを「迎え盆」ともいう。それぞれの「家」毎に鐘やご詠歌や迎え火を設け、先祖の霊魂(※注4)を家の中まで招き入れるのだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)祖霊という概念は柳田國男が提示した。柳田によると、日本人の民俗的霊魂観のうち、家を興した開発祖先の霊や、それに続く代々の子孫を養育して死を迎え、死後直系の子孫によって四十九日とか一回忌・三回忌というように年忌法要を営んでもらいつつ徐々に浄化をはたす。
そして誰それの霊としての個性を消失させ、その家の集合的霊格ともいうべき神(もしくは先祖一般、ご先祖様)に融合昇華したと考えられる霊が、祖霊なのだ。
したがって、祖霊観念は日本人の家意識と密着しており、死後に祖霊として祀り続けてほしいが故に(すなわち無縁霊として打ち棄てられたくないために)、人々は直系の子孫の繁栄と家の永続を願うのである。ただ、近年の家意識の変容は祖霊観にも少なからぬ影響を与えている。
(※注2)祖霊を迎えて行われる代表的行事がお盆とお正月である。家々のお盆行事の中心は祖霊との交歓にある。長野県の諏訪湖畔では「爺さま婆さま、この明りでお出でお出で」と唱えながら墓地で火を焚き、そこから手を後ろに回して爺・婆を背負う格好をして家に戻るというが、この爺・婆には特定の人がイメージされているのではなく、祖先一般すなわち祖霊なのだ。
このように、あたかも眼前に祖霊の姿が見えるかのごとく、家に案内して盆棚に迎え入れる例は全国に多く、供物をし、その前で家族・一族が数日間賑やかに過ごすのは盆の一般的光景である。
正月に迎える歳神(年神、稲魂であり祖霊でもある)の性格は盆に迎える霊より複雑であるとはいえ、祖霊としての性格も十分に認められる。このような盆と正月の行事は、一年を両分したそれぞれ最初の月の祖先の魂祭りだと考えられている。
卯月八日(うづきようか)の神迎えや春秋の彼岸行事も祖霊をめぐる行事であり、霜月二十三夜の大師講や各地の春秋の田の神・山の神去来伝承にも、祖霊の姿を垣間見ることができる。
(※注3)祖霊は家の神なので、氏神信仰とも深い関係にある。氏神には古来以来の変遷があり複雑多岐にわたるので、お盆のような祖霊のみで氏神信仰を理解することはできない。少なくとも、屋敷氏神や草分け宅の祖霊を核に発展したことの明らかな村氏神は、祖霊とかなり深い関係にある。
平安時代の官人社会では、二月もしくは四月と十一月の春秋二回氏神祭祀をしていたことが明らかになっており、これは神社の祭日にも反映されているとされている。この際日は屋敷氏神や村氏神の祭日とも概ね一致しているので、両者の本質的同一性が確認されれば、祖霊は日本の祭りの考察に欠かせない存在となりそうだ。
(※注4)迎え火とは、お盆に先祖の霊を迎えるために焚く火のことである。お盆の十三日夕方が多いようだが、お盆期間中毎日焚く所もある。墓・辻・門口などのどこかで焚いたり、墓で焚いた火を小さな松明や提灯に点じて持ち帰り再び門口で焚く例など、方法は各地で様々である。
燃料には麦藁・稲藁・麻幹(おがら)・松の小片・白樺の皮などが用いられている。焚くときは「おじいさんもおばあさんもこの火でござっしゃい」などと祖先迎えの言葉を唱え、そのあと霊を背負う格好をして家に入り盆棚に落ち着かせる仕草をする所や、近くの山頂でムラ共同で杉の葉などを焚き、その煙に乗って祖先が訪れると考えている所もある。
スサノヲ(スサノオ)

◆精霊の王 (2003 講談社 中沢 新一)
この本は、太古の昔から現代の日本社会へと、歴史を超えて脈々と伝えられている基層信仰の存在を明らかにしようとするものである。
今でも信州の諏訪地方をはじめ日本各地の神社の境内や路傍にひっそり佇む石の神々、民俗学者・柳田國男の初期の著作である『石神問答』でも紹介される「ミシャクジ」、「シャグジ」とか「サゴジ」などと呼ばれる石の神々のことである。
実はこの「ミシャクジ」、「シャグジ」、「サゴジ」はこの日本列島にまだ国家も神社もなく、神々の体系すら存在しなかった時代の「古層の神」「基層の神」を今に伝える痕跡ではないかとしている。
さらに、この「古層の神」は中世あらゆる芸道の守護神とされる「守宮神(しゅぐじん)」(鎌倉時代の説話集『続古事談』)、「宿神(しゅくじん)」となり、太古の昔から人々の意識の地下水脈を流れ続けてきたのだと。
中沢新一氏は、特に金春禅竹の『明宿集』に語られた猿楽の能の世界に注目。猿楽の能の世界の「翁」とは「宿神(しゅくじん)」であり、霊威激しい「大荒神」であり、天体の中心である「北極星」(宇宙の中心)と考える。
そして、中世の芸能者が篤く敬った社堂の真後ろにあり前の神仏の霊力の発動を促しつづける神霊こそが、「守宮神(しゅぐじん)」「宿神(しゅくじん)」の変化した存在だとみる。
日本列島にまだ国家も神社もなく神々の体系すら存在しなかった時代から、王権の発生と国家の形成は、神々の世界を体系化し、多種多様な神々の歴史を消し去ろうとするものであった。
しかし、体系化し消し去ろうとしても、民衆の意識の中に歴史を超えて脈々と伝えられ続けた信仰は、日本各地の神社の境内や路傍にひっそり佇む石の神々「ミシャクジ」「シャグジ」「サゴジ」として、芸能者の「守宮神(しゅぐじん)」「宿神(しゅくじん)」として、「古層の神」「基層の神」として生き続けてきたのだと。
太古の昔から現代の日本社会にも(特に芸能の世界に)、縄文の時代の基層信仰が生き続けていると教えてくれる良書である。基層の信仰に関心のある方にお勧めする。
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(四)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、先祖霊(祖霊)祭り・魂祭り
お盆の行事の中心は、家々に先祖霊を迎えて供養することにある。それに伴って訪れる様々な無縁霊・餓鬼の供養も同時に営まれる。日本の古い信仰では、御魂には生者のものと死者のものがあるとされていた。生者の御魂を拝するほうは、宗家の主人や両親に魚などの食物を贈って祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗としてお盆行事の一部をなし、これは「生き盆」と称されている。
「生見玉(いきみたま)」の意識は近年衰えつつあるとはいえ、ますます盛んになる中元の贈答が生見玉への贈り物の延長だとも考えられる。また一方、死者の御魂には仏教が強く関与し、その供養はお盆行事の中核をなしている(お盆には寺僧の関与が強く、一般には仏教行事と多くの人に理解されているが…)。
柳田國男の分析によると、お盆に祀る死者の御魂には精霊(祖霊)、新精霊(あらじょうろう)(注1)、外精霊(ほかじょうろう)(注2)の三種があるとされている(注3)。
祖霊とは、その家のかつての戸主夫婦の霊で、死後年を経て浄化され穏やかになり、お盆の期間子孫に迎え祀られて家の豊産安寧を保証してくれると信じられている(先祖霊・祖霊は清らかな神と認識されている例が多い上、健在な両親に対して生臭いもの(魚)を供するというような反仏教的性格もある)。
現在、各地のお盆行事は複雑で、祖先の「魂祭り」が中心であるとはいえ、それに健在な親を祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗、稲の予祝や畑作物の収穫祭的要素、中元(七月十五日)を祝う考えなどが加わっていった。
お盆に農耕儀礼的性格のあることは、盆棚の飾りや供物に様々な畑作物や稲の青苗を用いていることからもいえる。また、中国の麦作地帯の収穫祭に源があるという中元の祝いと無関係ではないようだ。
日本のこの時期は、稲作、畑作ともに作業が一段落し、過酷な夏の暑さも峠を越えつつある時で、次に秋を控え、季節の変わり目を意識した何らかの神祭りがあったと思われる。それが民間への「盂蘭盆会」や「中元」の浸透定着を容易にすると共に、お盆行事の構成要素にもなった。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(注1)新精霊(あらじょうろう)とは、一年ないし三年以内に亡くなったその成員であった者の霊で、死後まだ間がなくて十分に浄化されておらず、荒々しく祟りやすいと考えられている。そのため新精霊を祀る家のお盆は期間がやや長く、祭り方全般が丁重で、それだけ寺僧の関与も強いそうである。このお盆は吉事盆(しばらく不幸の内家のお盆行事)に対して新盆(あらぼん)・初盆(はつぼん)などと呼ばれる。
(注2)外精霊(ほかじょうろう)とは、祖先霊以外の餓鬼・無縁・法界などと呼ばれる、祀る子孫のいない諸霊のことである。招かないのに祖霊や新精霊に随伴してくるとされ、祀り方は全般において差別されている。ただ、外精霊はお盆行事の主役とはいえないが、日本人の霊魂観を知る上では無視できない存在である。
(注3)死をめぐる日本人の民俗的霊魂観によると、肉体は腐敗消滅しても霊魂だけは分離してどこかに存在し続けるとしている。また肉体から分離した当座の霊魂は荒々しいとされている。このような霊魂すなわち死霊は、放置すれば山野に盤鋸して激しく祟りをなすと考えられており、丁寧に鎮め祀れば次第に祟りを和らげ、逆に人々を守護してくれるようにもなると考えられていた。こうした考えは、平安時代、「御霊信仰」を生み出していくのである。
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(三)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、旧暦による民俗習慣
東京あたりでは、七月十五日(新暦)を中心に、十三日を「迎え盆」、十六日を「送り盆」といい、十三日から十六日までの四日間を「お盆」の期間(※注1)としているそうだが、関西をはじめ全国各地とも、こと「お盆」に関しては、圧倒的に旧暦の七月十五日もしくは、その便宜上の変形である新暦の八月十五日を中心に「月遅れのお盆」が行われている。
この現象は、「正月」をはじめ数々の伝統的な節句や民俗習慣が、なんでもかんでも「文明開化」の名の下に欧米化を進め、何の関連もない新暦(グレゴリオ暦)で実施されるようになった明治期以後の日本にあって、奇跡的にも旧暦の側が優勢な民俗習慣として残っている(※注2)。
お盆は、元来は日本固有の先祖祀りがモトになっている。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養を仏式によるよう強制したため、お盆も仏教のみの行事と誤解されて、現在に至っているのである。
我が国では、古くから神祭りと共に、先祖の御霊を丁重にお祀りする祖霊祭祀が行われ、人々は神と祖霊の加護により平安な生活を過ごせると考えていた。この神とは唯一絶対の神でなく、自らと繋がりのある先祖が徐々に昇華して神となった存在であると信じていたのである。
年中行事の中で、お盆と正月が二大行事として重視されるのも、お盆が先祖を、お正月が歳神(稲魂であり祖霊でもある)をお祀りする行事として、いづれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという意味を持つからなのだ。
ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるものであり、仏弟子の目連が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために、釈迦の教えで、七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)まで餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものである。
仏教が我が国に伝来すると、こうした盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院において行われるようになった。当初は僧侶の供養が中心だった「盂蘭盆会」は、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、先祖を祀る「お盆」となるのだ。 現在、地域や各家庭により新・旧暦を基準とし、七月十五日前後にお盆が行われるが、いづれにしても、日本古来からの大切な「先祖まつり」の時であることに変わりはないのである。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)お盆は先祖が帰ってくる期間あり、日本の重要な年中行事の一つである。また、お彼岸と並んで大きな仏教行事の一つで、先祖の霊を供養する行事だ。お盆は盂蘭盆ともいうが、これは、梵語(古代インド語)の「ウランバナ」(逆さ吊りの意)が語源になっている。
お盆は、この盂蘭盆が略されたものといわれている。お盆には先祖の霊が家に帰ってくると考えられており、各家庭では迎え火を焚いて先祖の霊を家に迎え、ナスやキュウリで作った牛馬などのお供え物を用意して先祖の霊を供養する。先祖と一緒に過ごした後は、送り火を焚いて先祖の霊を見送る。
お盆の由来はというと、釈迦の弟子の目連が、餓鬼道におち、逆さに吊るされ苦しんでいる母親を助けてほしいと釈迦に教えをこい、七月十五日に供養をしたのが、盆行事の始まりといわれている。現在では、新暦の七月十三日に先祖の霊を迎え、十六日の夕方に送り出すのが一般的だが、旧暦の七月十五日前後や月遅れの八月十五日前後に行う地域も多くなっている。八月十三日から十六日頃には、お盆休みで帰省ラッシュになるのも、都会の人々が、お墓参りをするために故郷に帰る習慣が定着化したためである。
(※注2)元来、お盆の行事は旧暦の七月十五日に行われていたのだが、明治時代に新暦になってからは時期が三つに分かれてしまった。
一つは新暦になってもそのまま七月十五日におこなう七月盆、つぎに七月ではあまりに早すぎるというので月遅れでおこなう八月盆、もう一つは旧暦の七月十五日におこなう旧暦のお盆である。関西地方ではほとんどが八月盆のようである。どうも、本来は初秋の行事であったようだ。
スサノヲ(スサノオ)

◆牛頭からスサノオの古代史、小林よしのりの「わしズムV.5」
◆◇◆わしズムVol.5(幻冬舎)「牛頭(ソシモリ)からスサノオの古代史」
書店である雑誌(ムック)に目が止まった。雑誌(ムック)のタイトルは「わしズム WASCISM Vol.5」(漫画と思想、日本を束ねる知的娯楽本、幻冬舎)。あの「ゴーマニズム宣言」で知られる小林よしのり氏の責任編集による雑誌(ムック)だ。
表紙の特集内容を見てさらに興味をそそられた。まさかとは思ったのですが、なんと、ゴーマニズム宣言EXTRA「牛頭(ソシモリ)からスサノオの古代史」とあった。早速買い求めて読むことにした。
はたしてどんな内容なのか、それ以上に「ゴーマニズム宣言」で、社会問題(差別、宗教、国家、個と公、戦争・・・)を批判を恐れず自身の考えを漫画を通して問題提起してきた小林よしのり氏が、何故日本神話を取り扱おうとしたのか、その中でも何故スサノオを取り上げたのかが気になっのである。当然、スサノオをどのように説明しているかも気になったが・・・。
始まりは、『古事記』に描かれたスサノオ神話のが紹介からである(「海原を治めよ」との命に泣き喚くスサノオ→アマテラスと誓約=ウケヒするスサノオ)。
誓約(ウケヒ)で生まれた宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)を祀る辺津宮(宗像大社)や中津宮(大島)を小林よしのり氏が訪ねる旅へと展開(こうしたスサノオへの関心は、小林よしのり氏の生まれ故郷に牛頸=牛首=うしくびがあったこと、神話と古代史に関する疑問から始まる。小林よしのり氏にとってのルーツとアイデンティティへの確認作業である)。
さらに小林よしのり氏は、日本人とは何か(渡来人とは?、海人とは?、帰化人とは?)、どのようにして日本人は日本人になっていったのかへと疑問と思索が進む。
関心は朝鮮半島と日本列島を自由に航海し交易をしていた海人、その海人を統率した宗像大社を祀る豪族・宗像君の祖先「胸肩君」と、古代の海路「道中(海北道中)」への関心へ向かう。
古代の海路「道中(海北道中)」のはるか太古に、小林よしのり氏は日本の創世の風景を思い浮かべるのである(タミル人の渡来と日本語の基礎=ヤマトコトバの成立、稲作・金属器・機織などの文明の伝来など)。
再度小林よしのり氏は、日本と日本人とは何かを探るため、牛頭とスサノオへの疑問へ戻る。
牛頭と朝鮮半島のソシモリ(新羅国の曽尸茂梨)、牛頭天王と祇園社の祭神、牛頭天王とスサノオ(須佐之男命・素盞鳴尊)、ソシモリと巨木信仰(御柱祭り)、『日本書紀』のスサノオの記述の真偽?、スサノオと紀氏(紀の国)と海人、スサノオの民間信仰と伝承、などへと時を越えて思索は深まる。
一つの地名にしても、一つの神名にしても、そこには数百年~二千年以上の様々な経過を辿った歴史と繋がり今日にあるわけだ。
また、話は高天原で乱暴狼藉をはたらくスサノオに戻り、さらにスサノオの源流を求める。根の国と海上他界、スサノオは紀伊の海人の信奉する神(海上他界のマレビト神)、水沼氏の奉祭する神など。
旅は中津宮(大島)へ、思いは沖ノ島の古代祭祀へと、脳裏に古代の歴史が甦える。小林よしのり氏は、大島の中津宮の杜(もり)で、スサノオの源流を追う思索の旅の中で、遥か昔の日本と日本人(風土と精神)に思いを巡らす。「日本と日本人はどのようにして、日本と日本人となったのか」と・・・。
このスサノオという神は、渡来の韓鍛冶部の神、出雲の須佐郷の地方神、荒れすさぶる神の神格、アマテラスの対立概念としての神などいろいろな解釈があるが、『記・紀』神話のスサノオの神格が誕生してくるまでにはもっと様々な変遷と経緯を通して出来上がってきたのだ。
それは、日本と日本人が形成される歴史とも深く関わる長い時間なのである。
是非、一読をお勧めする。
スサノヲ(スサノオ)