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◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(五)
※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。
◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越中)と能登半島
能登半島は、古代大陸や朝鮮半島の先進文化を直接に吸収し、新羅や加羅の渡来人(特に秦氏)が多く住み着いていたという。そのため、大陸や半島と同質の文化圏を形成していた地域で、この地域の神社は8割が渡来系の神であるといわれている。
気多神社(羽咋市)、白比古神社(田鶴浜町、古くは新羅神社と呼ばれる)、久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ、中島町〈古くは熊来郷〉、祭神・都怒我阿良斯等神)も新羅(加羅)系の神社である。白日神、天日槍、都怒我阿羅斯等は、同じ神で新羅・加羅系の神(新羅の王子か?)であった可能性がある。さらに、新羅系渡来人・秦澄の創建した白山比咩(しろやまひめ)神社もある。
能登半島七尾湾の田鶴浜町白浜に鎮座する白比古神社の「白」は、新羅の古称の斯羅・斯盧・新良であり、更にその元の名は斯(し)で羅は国土の意味であったと考えられている。『神祇志料』には「 白比古は新羅神の謂にや」と記されている。『古事記』上巻の「大年神の系譜」には「其の大年神…次に韓神(からのかみ)、次に曽富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)…」とあり、白日神は「新羅の日の神」、即ち新羅の神のことである。また、九州筑紫野市にある筑紫神社の祭神は白日別(しらひわけ)命と五十猛命であり、白日別は素盞嗚尊の別称といわれている。
川尻にある荒石比古神社の荒石は、古くは「アライン」「アラント」「ツヌガアラシト」と読まれ、白比古神は古くから石舟明神とか白髪明神といわれていた。こうした伝承は朝鮮半島の『三国遺事』にも残されており、それによると「新羅・阿達羅(あだるら)王の四年(157年)に東海の浜辺で藻を採っていた延烏郎(よんおらん)という男がいた。ところが延烏郎が乗っていた岩が急に動きだして彼を日本に運んで行ってしまった。それを見ていた日本の国人が、この人は普通の人ではないとして国王にした。延烏郎の妻の細烏女(せおにょ)は…岩は細烏女も日本に運んだので、国王となった延烏郎は妻を貴妃にした。二人が日本に行ってしまうと新羅では太陽と月の光が消えてしまった。…」という説話である(天孫降臨と太陽信仰が日本にもたらされたことを示す)。
新羅・加羅系の神とされる都怒我阿良斯等は、『日本書紀』垂仁二年によると「崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、一つの船に乗って越の国の笥飯の浦(今の敦賀)に着いた。それでそこを名付けて角鹿という。何処の国の人かと尋ねると、大加羅国(4~6世紀頃、朝鮮半島南部に栄えていた国)の王の子、名は都怒我阿羅斯等。…」と記されている。
「額に角の生えた人」とは牛頭の冠をかぶった姿ではと考えられ、スサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞嗚尊)も牛頭天王・武塔天神と呼ばれることや、スサノヲ命の伝承に新羅の曽戸茂梨(ソシモリは牛の頭の意味とも)に天降ったとする記述があることなど、朝鮮半島(特に新羅)との結びつきが色濃く窺える。
スサノヲ(スサノオ)