この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十三)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「五山の送り火(大文字焼き)」
八月十六日夜、京都の夏の風物詩であり夏の夜空を彩る「五山の送り火」が、京都市街を取り巻く山々で営まれる。多くの人が、ゆく夏を惜しみながら、送り火に手を合わせる。
当日の午後八時、大文字山(東山如意ヶ嶽、左京区)の「大」に火が灯され、それに続き「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」のかな文字や図形が、次々と山上に浮かび上がる。漆黒の夜に、オレンジ色の炎の文字がつくり出す幻想的な世界が京の街を包みむ。
「五山の送り火(大文字焼き)」は、盆に迎えた先祖の霊を見送り、無病息災を祈る精霊送りの伝統行事である。大文字の火が消えると火床から「炭」を取り出そうと多くの人(無病息災を願う人)が殺到するそうだ。(※注1)。
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「精霊流し」
八月十五日夜、長崎市・佐世保市で、お盆の伝統行事「精霊流し」が営まれる。夕刻から、いくつもの灯篭を飾った精霊船、藁で供物を包んだこも船が運ばれ、慰霊の爆竹のけたたましい音とともに精霊船を担ぎ引く人の流れは夜遅くまで続くそうである。
長崎の伝統行事「精霊流し」は、この一年亡くなった人の霊を精霊船に乗せて「西方浄土」に送る行事で、県内各地で繰り広げられる。長崎市中心部では、爆竹や鉦(かね)が鳴り響く中、大小さまざまな船が列をなす(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)十四・十五両日は、精霊は家に留まり、十六日の夜、家を去り、元いたところに帰ってゆく。伝統的な日本の霊魂観では、先祖の霊魂は、決してキリスト教で説くような天国や西方十万億土の浄土といった観念的な世界ではなく、われわれの住むこの世界の中に同居して(草場の影から見守って)いるのである。
自分の子孫の無事安泰を確認(そのために、われわれは先祖の霊魂を接待する)したら、満足した先祖の霊魂を、今度は送り火を焚き、帰り道を照らして、霊を送り出す。これを「送り火」といい、「盆送り」、「送り盆」などとも呼ばれる。
迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為「精霊流し」や有名な京都に五山に炎で文字が浮かび上がる「大文字焼き」もまた、盆の送り火の一つである。
(※注2)「精霊流し」は、家々に迎えた先祖の霊を、祀り終わって送り流すお盆の行事である。七月(新暦・旧暦)十五日夕方か十六日に行われる所がほとんどで、稀に二十日過ぎに行う例もあるそうだ。
先祖の霊(祖霊)は山や墓・寺などから迎えることが多く、川や海から迎える例は僅かである。これに対して送る場合は、迎えたときと同じく門口や墓などに火を焚くほかに、盆棚の材料に用いた竹・真菰(盆茣蓙)や供え団子や茄子・胡瓜で作った牛馬などを辻に納めたり、それらを川や海に流すことによって先祖の霊を送り返そうとしている例が多いようだ。
迎えてきた時とは異なる場所に送ろうとしているのは、霊の迎え・送りを統一的に捉えようとする観点からは辻褄が合わないが、それは長年にわたる他界観の変遷や重層の結果による矛盾と考えられている。
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十二)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と民俗学
柳田國男は、若い頃(三十五歳頃)『遠野物語』など民間に伝わる説話を集め始める。その後、貴族院議長徳川家達と衝突して書記官長を辞めて(四十五歳頃)朝日新聞記者となり日本各地を旅行、また国際連盟統治委員としてヨーロッパを旅行する。次いで雑誌『民族』を創刊し(五十歳頃)新しい民俗学の確立に努める。
やがて「民間伝承の会」を設立(六十歳頃)、全国各地から集積された民俗資料をもとにライフワークともいうべき主著を刊行する『先祖の話』は終戦の年、連日の空襲警報の下で書かれた。戦後(七十歳頃)日本の神、家はどうなるのかを憂えて「民俗学研究所」を設立、民間伝承の会を日本民俗学会に改称して会長となる。晩年(八十歳頃)、「民俗学研究所」を解散した。
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と経歴
柳田國男(1875~1962):日本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思想家。明治8年7月31日に兵庫県東郡田原村辻川に生まれる。父、松岡操は儒学者、長兄、鼎は医者、三兄、井上通泰は歌人、次弟、静雄は言語学者、末弟、映丘は日本画家として名をなしている。
1887年に上京して森鴎外宅に出入りするようになり、文学活動に入り『文学界』に詩作を発表するようになった。東京帝国大学法学科大学卒業後、農商務省農政課に入り、農政官僚の道を進み、当時の農政学に関心を抱くようになる。
1901年(明治34年)柳田家の養嗣子となり、その後法政局参事官に転出した。その間土曜会、竜土会、イプセン会などで文学活動を続け、田山花袋、蒲原有明、小山内薫、島崎藤村らと知り合う。
1908年九州旅行で宮崎県椎葉村を訪れ、山民の実態にふれたのが契機となり『後狩詞記』をまとめた。さらに1910年に『遠野物語』と『石神問答』を刊行し、日本民俗学の基礎を築いた。
その後、柳田の関心は郷土研究に置かれ、新渡戸稲造、小田内通敏、松本蒸治らと郷土会を組織し、1913年(大正2年)に雑誌『郷土研究』の刊行を開始した。1919年貴族院書記官長の要職を辞したのち、朝日新聞社客員となり、全国各地への旅行を続け、沖縄へも初めて訪れ、民俗学飛躍のきっかけをつかんでいる。
1922年、国際連盟委任統治委員に任命され、ジュネーブに赴いた。帰国後、『朝日新聞』論説員として活躍する一方、『海南小記』『明治大正史世相篇』『都市と農村』などを刊行した。昭和十年代にかけて民俗学の理論化を行い、『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史と民俗学』(1936)を相次いでまとめている。
とくに民族資料の収集、分類の基準を説くとともに、民俗のなかの心意伝承を重要な領域に設定したことが大きな特色となっている。1933年(昭和8年)九月以来、民俗学研究の中心となった木曜会を組織した。木曜会は第二次世界大戦後の民俗学研究所の活動に引き継がれた。木曜会において、その後成長した日本民俗学者たちの数多くが柳田の教えを受けた。
1935年に還暦を迎えた柳田を祝う目的で日本民俗学講習会が開催され、これを契機として、民間伝承の会が発足し、機関誌『民間伝承』が刊行され、全国各地の研究者を組織化する第一歩が始まっている。柳田は全国各地を旅行した際、現地で同じ関心を持つ同学の士と会い民俗学の普及に努める一方、木曜会のメンバーを中心として全国的な民俗調査を実施し、山村、海村、離島の報告書をまとめている。
柳田は第二次大戦中から、しだいに日本人の基層信仰に焦点を定め、1945年7月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。
戦後、柳田は民俗学を学校教育に取り入れることを積極的にすすめた。そして1949年(昭和24年)に民間伝承の会は日本民俗学会と改称され、柳田は初代会長となった。戦後の柳田の思想の軌跡は、日本民族と稲作の伝来のルーツをつなげる『海上の道』であり、死の一年前にその構想が大著となって公刊されている。
柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、世界観を探ることにあり、その業績は日本研究の根幹に関わるものとして高く評価されている。(日本大百科全書より)
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十一)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男の霊魂観『先祖の話』
「柳田國男がライフワークともいうべき『先祖の話』(全集文庫版の第十三巻)を執筆したのは、空襲警報の下だった。昭和二十年の五月から敗戦後の秋にかけてである。柳田の慧眼は、いまの“靖国”をめぐる混乱を鋭く見抜いていたというほかない。
『先祖の話』は、日本人の古来の霊魂観や死生観を取り上げこう書いていた。〝少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う〟。敗戦濃厚となった日々、国難に殉じた人びとのタママツリ(魂祭り)に強い危機感をおぼえたのだろう。
柳田は、国ごとに常識の歴史というものがあるといい、民族の年久しい慣習を無視しては英霊は安んじて眠ることはできないと心底憂えていた。(中略)〝人は死ねば子や孫の供養や祀りを受けて祖霊に昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って、人や家や国の幸福や繁栄を見守る〟というのが柳田の霊魂観だった。」
産経新聞の産経抄(平成十四年八月十五日)より抜粋
民俗学の父・柳田國男(※注1)は、敗戦が色濃くなった昭和二十年五月から、日本の行く末を心配し、『先祖の話』(※注2)を一気に書きあげたそうだ。先祖を大切にする心があれば、戦後の混乱にも、けっして日本人であることを失うことはないと考えたのであろう。
そのためには先祖のことを書いておかなければならない、という思いが遺言のように込められているようだ(※注3)(柳田國男は、戦争に敗北後、日本がアメリカの統治下に入ることを予期して、日本人の自己認識(アイデンティティ)を保持しておこうと考えたためと言われいる)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)日本全国の古来の様々な風習、伝統といったものが日本の近代化によって急速に消滅していくなか、柳田國男が切り開いた民俗学は、忘れかけていた伝統的な日本のよさと祖先たちに代表される日本と日本人の本質(古きよき日本を理解する上で極めて重要かつ多様な問題)を甦らせる。
柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、死生観、世界観、宇宙観を探ることにあった。彼の作品に綿々とそのことが綴られている。柳田の業績は日本研究(日本学)の根幹に関わるものとして高く評価されている。
(※注2)柳田國男は、第二次大戦中から、次第に日本人の基層信仰に焦点を定め、昭和二十年(一九四五年)七月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。
(※注3)柳田國男は『先祖の話』のなかで、死者が「帰る山」について、次のように語っている。「無難に一生を経過した人々の行き処は、是よりももっと静かで清らかで、此世の常のざわめきから遠ざかり、且つ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならなぬ」。
かつて私たちは、確かな死後の世界を持っていた。それは、「人は死ぬと山へ帰る」と。だから「いずれは私もあのお山へ帰っていくのだ」と、村の周囲にひときわ秀でたそのお山を崇拝したのである。現代人は死のイメージを持たなくなったようだ。生も死も本来は自然のものだ。
ところが生命科学の発達とともに、驚異的な勢いで人手に移ってしまった。生死は儀式であり祭りであり、他界への出入り口であったのである。その豊穣なイメージを喪失したところに、私たち現代人の“生の不安”の根源がある。
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の先祖観と先祖祭り
民俗学を創始した柳田國男によると、「先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。だから、作物が取れたら、それを供物として祖霊神に捧げ、共に喜びを分かち合って、これを共食し、新しい年の豊穣を祈る。豊穣を祈る祭りは、そのまま祖霊を祀ることになる」と説明している。
日本人は、食物が新たに稔るのを祈る事と、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一心同体として、年中行事や祭礼の中に伝承してきたといえる(※注1)。また、十五日は、太陰暦の時代はこの日は満月であり、昔は明るい夜を提供してくれる満月の夜に様々な祭りが催されていたのである。「お盆」もそうした古い祭りの一つなのかもしれない(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)民俗学からみた日本人の霊魂観によると、人が亡くなった後の魂は三つの段階を辿るそうだ。(1)死霊と荒魂、(2)祖霊と和魂、(3)神霊と氏神の三段階です。
(1)死霊と荒魂については、人がなくなるとその魂は、不安定な「死霊」となって家の付近を彷徨うと信じられている。ときには生きている人に害を及ぼすこともあるので、荒々しい魂という意味の「荒魂」とも呼ばれる。そこで家の人は死霊を大切に鎮める必要があり、仏教の追善供養や神道の鎮魂・慰霊祭が営まれる。死霊(荒魂)は、大切にお祀りをしてもらうと、その家のわざわいを除き、幸福をもたらしてくれる除災招福の力がある、と信じられている。
(2)祖霊と和魂については、ほとんどの家では、追善供養を仏教で行う。最初が「四十九日」で、七日ごとに七回お寺に法要をしてもらいう。次が百日目、あとは一周忌、三回忌、十三回忌という風に、すこしずつ間をあけながら仏壇やお墓で供養する。こうして死霊は、年月とともに荒々しさも消え、安定し、やがてなごやかな魂という意味の「和魂」とよばれる家の祖霊となって行く。祖霊は家族や子孫に災いや害を及ぼすこともなくなり、むしろ繁栄と恩恵をもたらすと考えられている。
(3)神霊と氏神については、家族の供養をうけて三十年ほどすると、祖霊は血縁の家を離れ、個性を持たない霊になると信じられた。祖霊は、同じ地域(地縁)の神様の仲間に入るので「神霊」とよばれる。これが村の「氏神様」である。鎮守の森(神社)では、村中で氏神様をお祀する。氏神様は村全体の繁栄、とくに農業が中心だったころは豊作(五穀豊穣)をもたらし、人びとの安全や願いを叶える一方で、人々の生き方によって天災をもたらす、恐ろしい一面もある。ちなみに三十三回忌または五十回忌が終わると家の供養から完全に離れるので、「弔い切り(問い切り)」といって、戒名を書いた位牌を処分し、お墓を倒す「墓だおし」を行うところもあるそうだ。
(※注2)「日本では祭というたった一つの行事を透して(通して)でないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まってきている実情は、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるるいくつかの信仰組織、たとえば仏教や基督教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。(中略)説教者という者はなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。以前は、専門の神職というものは存在せず、ましてや彼等の教団組織などはなかった。(中略)その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。温帯の国々においては、四季の循環ということが、まことに都合のよい記憶の支柱であった。」(『柳田國男全集十三』ちくま文庫「祭から祭礼へ」)。
スサノヲ(スサノオ)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(九)
◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の宗教観、農耕民族と農耕儀礼
日本は農耕民族であり、生業儀礼=農耕儀礼となっていることが多いようである。農耕儀礼は、世界的にみて復活と豊饒の儀礼だ。農業儀礼の特徴として、収穫サイクルがきっちり一年であることがあげられる。しかも、年中行事という形で、農業のサイクルに応じて多数の農耕儀礼が現在も残っている。
日本の場合、さらに農耕儀礼=稲作儀礼になっていることが多いようである。小正月の予祝儀礼(※注1)のほか、田植え近くには田の神を祀る行事があり、水口祭(種まきのときの祭り)とか社日(春分・秋分の日に最も近い戊の日のこと、春秋の神の去来をみる日)、田の神降りなどが行われ、植物が育つ夏には病虫害を防ぐ虫送り、人形送りなどが行わる。
ところが、七夕とお月見は、稲作儀礼ではなく、畑作儀礼出身の行事のようである。稲作の収穫儀礼は十月十日頃(旧暦)に行われる刈り上げ祭りというものらしいだが、お月見に比べ一般的ではない。
中秋の名月は八月十五日(旧暦)の月のことで、芋名月と呼んで畑で取れた作物を月に供える。九月十三日(旧暦)の栗名月(豆名月)には栗などを供える。中秋の名月は里芋の収穫祭と考えられているが、九月十三日の十三夜(後の月、栗名月、豆名月、女名月とも呼ばれて、十三夜の風習は中国にはなく、日本独自のものである)も、民間では収穫祭が行われる。
日本の農耕関連の儀礼は正月ではなく、旧暦一月十五日の小正月に集中している(※注2)。十五日(望月)は、太陰暦では満月であり、農耕儀礼が多く行われる。暦の上で正月と対になるのは、通常お盆と考えられていますが、大陸の方では中秋である。
どちらも旧暦十五日、満月の日である。月見については、いまでは中秋のものだけが特別扱いされるだけだが、もともとは毎月の満月が特別な節目(祭り、ハレ)で、民衆にとっては、毎月の中心は満月の夜であったのだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)予祝儀礼とは、年初などに神霊に豊かな収穫を祈願するものである。小正月に、麦の畝を三列作って松を立てて拝む、麦団子を作って食べる麦正月などが知られていた。また九州など南方では里芋を神棚に供えるなど、里芋の儀礼が多く伝わっている。これら農業関連の予祝儀礼は、元旦ではなく、満月にあたる小正月に多いのが特徴である。
この予祝儀礼に対応する、秋の収穫儀礼が盆と中秋の名月にあたる。いずれも満月の日だ。旧暦八月十五日は米の収穫にはちょっと早いようだが、もともと南方の里芋の収穫儀礼の日時である、という大林太良氏らの有名な説が最近は主流となってきている。
稲作の収穫儀礼は十月十日前後の刈り上げ祭が祭りらしいのだが、畑作の収穫儀礼である中秋の名月や盆に比べるとどうも一般的ではない。
(※注2)朔正月を大正月というのに対して、十五日正月を小正月という。大正月が公式の儀礼ばった行事が多いのに対し、小正月は生活に即した行事が多いようだ。昔の生活は、月明かりを利用することが多かったからか、闇夜の大正月より望(もち=満月)の小正月の方が親しみやすく、大昔の生活の上ではむしろ小正月が年の境目であったのではないかともいわれている。
小正月に行われる行事は、削りかけ、成らせ餅などのモノツクリ、農耕を模して豊作を予祝する庭田植え・成り木責め・鳥追いのほかに、小豆粥を食べ、夜はナマハゲなどの異様な訪問者があったり、これらはすべて農耕儀礼と見ることができ、年占や呪術的な要素が強いことが注目される。
スサノヲ(スサノオ)