Posted by 滋賀咲くブログ at
この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

◆大祓の儀と大祓の祝詞、スサノオの謎(一)

2006年06月22日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:39 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆大祓の儀と大祓の祝詞、スサノヲの謎(一)

◆◇◆大祓の儀と大祓の祝詞、スサノヲ命の謎

 六月三十日はちょうど一年の折り返し点だ。大祓というのは毎年六月と十二月の晦日に、宮中より始めて全国の神社で執行する儀式で、神社などでは年二回の大祓の儀式を行う。

 私達が平素犯した罪や触れた穢、また他より仕向けられた災難悪事のあったのをきれいに祓い清めて、心身共に清浄にするものである。半年の罪や穢れを祓い、清々しい心で残り半年を迎えるための行事だ。

 平安時代には、この日に御所の朱雀門に皇族らが集まり、大祓詞(おおはらえのことば)が中臣氏によって奏上され、国民の罪穢を祓う行事が行われる。しかし、中世の戦乱時に衰退していたが、明治四年再興され、現在に至る。

 大祓の祝詞は、『大祓祝詞』といい、中臣氏がこれを読んだので別名「中臣祓詞」、「中臣祓」、「中臣祭文」という。

 その内容は、いかに穢れが神の力によって祓われて、除去されていくのかが述べられている。後半の罪穢れが異界へと運ばれてゆく件は、『古事記』『日本書紀』とは異なった宇宙観・神話世界が説かれている。

 「高天原に神留り坐す皇親・神漏岐・神漏美の命以て、八百万神達を神集へ に集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて、我が皇御孫之命は、豊葦原の水穂の国 を、安国と平けく知食せと事依さし奉りき・・・(中略)・・・如此持ち出て往なば、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開 都比羊と云ふ神、持ち可可呑みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸に坐す気 吹戸主と云ふ神、根国底之国に気吹き放ちてむ。加此気吹き放ちてば、根国底之国に坐す速佐須良比羊と云ふ神、持ち佐須良比失ひてむ」

 といった祝詞で、内容的には『記・紀』神話の「天孫降臨」説話から説き起こして、この世の中にある種々諸々の罪や穢れ、こうした一切の罪穢れは、天や地の神々の力により川を経て大海原に運ばれ、海では更に海の神の力で根の国・底の国へ送ってしまい、更に根の国・底の国では速佐良比咩(はやすさらひめ)に始末してもらうといった内容だ。


スサノヲ(スサノオ)


◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(六)

2006年06月21日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:41 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(六)

◆◇◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想、『記・紀』神話にみる禊祓の起源(3)

 『古事記』神代巻によれば、スサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴尊)は高天原において乱暴狼藉を働き、数々の罪を犯したとしている(農耕を妨害する罪)。こうした罪と、『大祓詞』に列挙されている天つ罪(天津罪)とは符合する。

 また罪を犯すと、その償いとして多くの贖物(あがもの)を出さなければならないが、これを千位置戸(ちくらのおきど)という。これは全財産を没収されることを意味しる。

 しかし、スサノヲ命の犯した罪は、千位置戸をもっても埋め合わせることが出来ず、髭や手足の爪を切られ、遂に高天原を追放されることになる。

 これがわが国における「祓」の起源であるとされる。このように『古事記』神代巻で、スサノヲ命が大きな祓(大祓=おおはらえ)を科せられたとする描写は興味深い。

 さらに、『日本書紀』神代紀(一書第三)では、スサノヲ命が高天原を追放されていく様子を詳しく伝えている。それによると、「時に、霖(ながめ)ふる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)、青草を結束(ゆ)ひて、笠蓑(かさみの)として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰(いは)く、汝は是躬(み)の行濁悪(けがらは)しくして、逐(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。(中略)遂に同に距(ふせ)く。是を以て、風雨甚(はなは)だふきふると雖(いへど)も、留(とま)り休むことを得ずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。(中略)笠蓑を著(き)て、他人の屋(や)の内に入ることを諱(い)む。又束草(つかくさ)を負ひて、他人の家の内に入ることを諱(い)む。此を犯すこと有る者をば、必ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此、太古の遺法なり。」と記す。

 『日本書紀』神代紀におけるスサノヲ命の姿は、すなわち「青草を結束ひて、笠蓑とし」「辛苦みつつ降り」ていく姿は、あたかも辛酸を嘗め惨めな姿で流浪する悪神をイメージさせる。

 また「笠蓑を著て、他人の屋の内に入ることを諱む。又束草を負ひて、他人の家の内に入ることを諱む。此を犯すこと有る者をば、必ず解除を債す。此、太古の遺法なり」とあり、この箇所は「大祓」と深い関係にあることを示してる。

 『大祓詞』の最後にも、天下四方(あめのしたよも)の罪を背負って、根国・底国を流浪する速佐須良比咩(はやすさらひめ)という女神が登場しますが、この女神は、あたかもスサノオ命のイメージではないかと考えられるのだが…。

 しかし、『古事記』神代巻によれば、その後、出雲国に降ったスサノヲ命は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を得ると、高天原の天照大御神にそれを奉献し、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚して八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)を生み、まさらに神大市比売(かむおおいちひめ)を妻にして大年神と宇迦之御魂神(うかにみたまのかみ)を生むなど、多くの子孫をもうけたとある(国津神の系譜の始まりであり、スサノヲ命は国津神の祖神とされる)。

 高天原において悪神とされたスサノヲ命も、一転して出雲国では勇敢な英雄神・文化神という善神へと生まれ変わるのだ。つまりこうした「祓」を経たことにより、スサノヲ命は新しく生まれ変わることが出来たと語るのである。

 ここに「祓」の本義を読み取ることが出来る。このように、『記・紀』神話は神代の世界を通して、神道儀式の禊や祓の由来とその意味を説明しようとするのである。

 そして『記・紀』神話は、わが国における天津神(高天原の神々)の宗教的権威の絶対性(皇祖神・天照大御神)と、天皇家(天孫族)による統治の正当性・正統性とを、あらためて神話の世界を通して示すのである。


スサノヲ(スサノオ)


◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(五)

2006年06月20日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:04 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(五)

◆◇◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想、『記・紀』神話にみる禊祓の起源(2)

 「祓(はらえ)」の起源は、「祓」も「禊」と同じく人間を不幸にする罪や穢れを除去する神道の重要な儀式の一つである。しかし、「祓」の場合は「禊」のように水を必要とせずその代わりに罪穢れを贖うための料(りょう)として差し出す祓具(はらえつもの、祓物・祓柱・祓種=はらえつぐさとも)を用いる。

 大祓の神事(6月と12月に行われる祓えの神事)に祓具として差し出す形代(かたしろ)・人形(ひとがた)などがそれである。それらの祓具で体を撫でて又は息を吹きかけ、それに罪穢れを移して川や海に流す。

 因みにこれらを体を撫でることから撫物(なでもの)ともいいう(「禊」は自らの浄化儀礼で、「祓」は他者あるいは自分を含む集団に対する浄化儀礼であるとも考えられる。この禊・祓に対するものが穢れであり、これには不浄物のほかに災厄や他の世界に属するもの=俗なる物・死などが含まれる)。

 大祓においては、『大祓詞(おおはらえのことば)』を読み上げる(天皇・朝廷が大祓を行うことによって、国中のすべての罪穢れが祓われるとした。大祓は天皇・朝廷にとって宗教的権威・宗教的支配の象徴でもある)(※注1)。

 大祓詞には人間の犯した、また犯すであろう諸々の罪が列挙されている。そして、それらの罪という罪がどのような道筋を辿って祓われて行くかが述べられている。

 それは、人間が犯した罪は、瀬織津姫(せおりつひめ、激つ速川の瀬に坐す)という神によって川から海へ運ばれ、次に速開都比咩(はやあきつひめ、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百に坐す)という神によって、海へ運ばれてきた罪がすっかり呑み込まれる。

 次に伊吹戸主(いぶきどぬし、伊吹戸に坐す)という神によって、それらの罪が息吹き散らされて根の国の方へ吹き込まれる。

 すると速佐須良比咩(はやすさらひめ、根の国・底の国に坐す)という神によって、それらの罪が背負われて、当所(あてど)なく流離(さすらい)いながら失われてしまう。このように流離いながら失わせて下さるので、罪は無くなってしまうと記されている。

 つまり人間の犯した諸々の罪は、この四神(瀬織津姫、速開都比咩、伊吹戸主、速佐須良比咩)によってすっかり祓われてしまうところから、これらの四神を祓戸(はらえど)の神という。

 中でも速佐須良比咩(はやすさらひめ)ついては、「根の国・底の国に坐す速佐須良比咩と云ふ神、持ちさすらひ失ひてむ」と記されており、これは「速(はや)流離(さすらひ)姫」の「ひ」を一音省略した形と考えられ、流浪する、漂浪する意味にもとれ、罪穢れを持って流離の旅を続ける女神と解釈できる。

 根の国・底の国は精霊の世界、黄泉の国は死の世界、いずれも地底・地下の世界と考えられ、後には概念が混淆していく世界である。

 古代人の世界観では根の国・海祇(わたつみ)は罪が流れ着き集積する世界(一方で豊穣をもたらす世界であり、マレビト神が住むとされる世界でもある)であったのだ。

 さらに、根の国・底の国と速佐須良比咩の神名から想像するに、そこには罪穢れを背負って流浪するスサノヲ命(スサノオ命・速須佐之男命・速素盞鳴尊)がイメージされてたと考えられる(スサノヲ命の娘・須勢理毘売とも)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 神道がその宗教体系をはっきり形としたのは奈良時代初期、天武天皇の時代である(古典神道の成立)。天武天皇は各氏族・皇族の記録や伝承を編纂し、神道のもととなる神話を整理したのだ(『記・紀』神話の成立)。

 この『記・紀』神話には、天皇による日本の統治の正当性と正統性を示すほかに、当時国家の基盤であった稲作の重要性についても触れられていた。神道の祭りや儀礼に稲作との関連が強いのはこのためである。この後朝廷は政府の職に神祇官を設け、同時に全国に神社を建立する(神祇神道の成立)。

 神道はこのような発祥基盤を持つため、宗教というよりは政治に近かったのである(天皇を中心とする律令国家の政治政策としての色彩が強い)。


スサノヲ(スサノオ)


◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(四)

2006年06月19日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:24 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(四)

◆◇◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想、『記・紀』神話にみる禊祓の起源(1)

 『記・紀』神話にみる「禊祓」の起源については、(イザナギ命・伊邪那岐命・伊弉諾尊)が竺紫の日向の橘の阿波岐原にある小戸(をど、小さな水門)で黄泉の国の穢れを除くために禊祓を行ったという記述がある。

 『古事記』には「吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身の禊せむ、とのらして、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊祓したまひき。」と記している。

 これは汚い黄泉の国から脱出してきた伊邪那岐命が「私は何と汚い国へ行ったものだ、禊をしよう」といい、小さな水門で禊祓をしたという事だ。

 いよいよ禊を行うにあたって、伊邪那岐神は身に付けていた物をことごとく投げ棄てる。その時投げ棄てたのは、御杖・御帯・御嚢・御衣・御褌・御冠・左の手纒・右の手纒等で、これらから十二柱の神々が生まれたとされている(神道ではこの時に諸々の祓戸の大神達が誕生したことになっている)。

 このように、身に付けていた物をことごとく脱ぎ去っている事から、「禊」の起源は「身削き」とするも説がある。また、水中に身を投じ身を振りすすぐ事、これら全部が「身削ぎ」との説もある。(※注1)

 「ミソキ」とは現在一般に「禊」の字を当てているが、古くは身曾貴・身祓・潔身・身滌等と表記されていた。特に「滌き」は、アラフ・ウゴカス・ススグ・ソソグ・ハラフ・キヨシとも読む事が出来る。

 これらの読みからも分かるように「滌き」とは水中に身体を浸してゆらゆらと振り動かす事である。つまり身体を振るって罪穢れを洗い落とす事だ。

 それは単に衛生上のためだけでなく、そうする事により魂を純潔無垢の状態に立ち返らす効果があったのである。つまり、水中で身体を振ることは、一種の魂振り(たまふり、鎮魂)の所作なのだ。(※注2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 『記・紀』神話(『古事記』と『日本書紀』)によると、伊邪那岐大神(イザナギ命・伊邪那岐命・伊弉諾尊)は竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の阿波岐原(あわぎはら)にある小さな水門(みなと)において、黄泉(よみ)の国の穢れ(けがれ)を除くために「禊祓(みそぎはらえ)」を行った。このことが一般に「禊(みそぎ)」の起源であるといわれている。

 ところが、『記・紀』神話の内容を詳しく見てみると、実はそこにおいては「禊」だけでなく、「祓」も行われていたのである。

 すなわち『古事記』には次のように記されている。「吾(あ)はいなしこめしこめき穢(きたなき)き国に到りてありけり。かれ、吾は御身(みみ)の禊(みそぎ)せむ、とのらして、竺紫の日向の橘の小戸(をど)の阿波岐原(あきばら)に到りりまして、禊祓(みそぎ)したまひき」。

 これは、汚い黄泉の国から脱出してきた伊邪那岐大神が「私はなんと汚い国へ行ったものだ、禊をしよう」といわれて、竺紫の日向の橘の阿波岐原にある小さな水門(みなと)、つまりに朝日のよく当たるところの水門において禊祓をしたということである。

 そして禊を行うことになるが、その前に伊邪那岐大神は、身に付けていた物をことごとく投げ棄る。このときに投げ棄てたのは、御杖・御帯・御嚢(みふくろ)・御衣(みけし)・御褌(みはかま)・御冠(みかがふり)・左の手纏(たまき)・右の手纏などであった。これらから十二柱の神々が誕生したとしている。

(※注2) 日本人の罪悪感を表す言葉に、「罪(つみ)」と「穢れ(けがれ)」がある。この二つの言葉は、いうまでもなく宗教的な意味合いで使用されるが、同時に倫理的・道徳的な立場においても用いられる。

 この罪や穢れを捨て去って、心身ともに清らかに立ち返るために行われる神道的儀式が、「禊(みそぎ)」と「祓(はらえ)」である。

 禊と祓は、神道の根本的思想をなす儀式として重視されてきたが、その思想が広く日本人の生活の中に現在も活かされていることは、注目すべきことである。


スサノヲ(スサノオ)


◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(三)

2006年06月18日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:19 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考
地図はこちら


◆「夏越の祓」と「禊祓」の神道思想(三)

◆◇◆「夏越の祓(水無月の祓・六月の晦の大祓)」と「禊祓」の神道思想、神社と大祓の儀

 『神祇令』には6月・12月の晦日に、中臣が御祓麻(おおぬさ)を奉り、東西の文部が祓の刀を奉って祓詞を読み、百官の男女が祓所に集合して中臣が祓詞を読み、卜部が解除(はらえ)をすることが規定されている(律令制下で国家的・公的行事として大祓式行われた)。

 『儀式』や『延喜式』でも、朱雀門に百官の男女をはじめ、天下万民が集まって祓えを修したと記している(大祓は大嘗祭のときや、触穢・疫病・天災地変があったときに行われる)。

 しかし、中世以降衰退するが、ことに応仁の乱以降、戦国の世になって廃絶したが、宮廷では元禄四年(1691年)以降、内侍所清祓として復興し、明治四年に至って賢所前庭神楽舎を祓所にあてて行われるようになった(明治五年六月、大祓式の儀式次第が府県に達せられ、大正三年二月内務省訓令で官国弊社以下神社における大祓が定められた)。

 一方、民間でも6月の大祓、夏越の祓(なごしのはらえ)・水無月の祓(みなつきのはらえ)・おんぱら祭などと称して、茅の輪を作ってこれをくぐり、また人形を河海に流す等の祓えの行事は、宮廷行事として行われた時代においても広く行われていた(元来は常に清浄を希求する日本民族の国民性に発した民俗行事であった)。

 これが神社では一層盛大に恒例化して、今も全国神社では大祓は年中行事となっている。六月晦日の夕刻、神社の境内では竹を立て、高さ六尺くらいの茅の輪を作って、それをくぐることによって祓の儀とする。

 このように全国に広く行われているのは、他では絶えた固有の民俗行事も神社はそれを保存伝承する役割を担ってきたからである。(※1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※1) 古来人々は不浄(穢れ)を忌み嫌い、清浄であることをもっとも重視した。そのため穢れを取り除く方法として、「禊」が行われたと考えられる。

 つまり、「禊」とは塩水に浸かって体を洗い浄めることであった。塩水は古くから罪や穢れを浄める力があり、海に通じる清流や滝もその代わりで、あらゆるものを洗い浄めると信じられていたのである。

 そのため、禊の場に清浄な海浜や川が選ばれ、その際、手には麻の葉、茅草などを持って行われたという(お弔いのときの塩まきや、相撲力士が土俵でする塩まきも、禊=お浄めである)。

 また『記・紀』神話には、「禊祓」の起源といえそうな説話として、イザナギ命=伊邪那岐命の竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原での禊祓(常闇の黄泉の国の穢れを祓うため)と三貴子誕生の説話が記されてる。

 他にも、スサノオ命(スサノヲ命・須佐之男命・素盞鳴尊)が高天原で天津罪を犯し、祓えと祓物(千座置戸)を出す説話が記されている(農業妨害の罪の祓)。

 さらに大国主命の「八千戈の神語歌(かみがたり)」の中で、黒御衣・青御衣・赤御衣を次々に脱ぎ替え投げ棄てて、海辺で禊祓の儀式のようなことを行っている。


スサノヲ(スサノオ)