この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

◆「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(二)
◆◇◆「新嘗祭」、天孫降臨神話と「御直会の儀」、神話世界を神事儀礼によって再演(再現)
新嘗祭(にいなめさい)は、毎年十一月二十三日に全国の神社で行われる。宮中での新嘗祭は、天皇が神嘉殿において神々(天照大神をはじめ天神地祇)に感謝を込めて新穀(神饌)を奉るとともに、自らも共食される厳粛な祭りが行われる(※注1)。
二月の祈年祭(としごいさい)は五穀の豊穣を祈願するものであり、十月の神嘗祭は収穫の初穂を神々に奉る祭りであり、十一月の新嘗祭は、その年の収穫を神々に感謝する祭りである(新嘗祭の神饌=しんせんは、全国から献納された新穀が用いられる)。また、新嘗祭の前日・十一月二十二日には鎮魂祭が行われる。
新嘗祭の起源について、宮廷神話(『記・紀』神話)はこのように説明している。『日本書紀』神代巻で、アマテラス(天照大神)が皇孫・ニニギ命(皇孫天津彦火瓊瓊杵尊)の降臨に際して、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂(ゆにわのいなほ)を以て、また吾が兒(みこ)にまかせまつるべし」との神勅を下し、斎庭の稲を授けたと神話的由来を伝えている。
高天原で育てられていた穀物の稲穂が、皇御孫命により初めて葦原中国でも栽培され、これが我が国における農業の事始めとされるのだ(豊葦原瑞穂国)。歴代の天皇はこの天孫降臨の神勅を基に、この神恩に対する感謝の祭りとして新嘗祭が続けられているのである(天皇が五穀豊穣を神々に感謝するのが新嘗祭とされ、これに倣って全国の神社においても新嘗祭が執り行われる)(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)新嘗祭は、夕刻から深夜にかけて斎行される「夕の儀(ゆうのぎ)」と、深夜から明け方にかけて斎行される「暁の儀(あかつきのぎ)」から構成されている。当日、身を清められた天皇は、綾綺殿(りょうきでん)に出御され、純白の絹の御祭服(ごさいふく)を召される。
夕刻になると、天皇は、神嘉殿にお渡りになり、外陣(げじん)の御座に著御される。この間、膳舎(かしわや、神饌を調進する殿舎)から神嘉殿に神饌(しんせん、神への供物)が運ばれる(神饌行立=しんせんぎょうりゅう)。
神楽歌(かぐらうた)が奏される中、天皇は内陣(ないじん)にお進みになり、御座に著御され、お手づから箸を取られて、柏の葉を重ねて竹のひごで結った葉盤(ひらて)というお皿に神饌を御親供(ごしんく、天皇みずから神に供物を捧げること)される。
新穀から調進した神饌を天皇みずからお進めし、神々にお召しあがりいただく。御親供ののち、天皇は御拝礼され、ついで皇祖(こうそ、天皇の祖先)への御告文(おつげぶみ)を奏される。御告文が終わると、天皇は、神々に捧げられたものと同じ神饌の米と粟との御飯、御酒(白酒・しろき、黒酒・くろき)をお召しになる。
この儀を「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」といい、皇祖と飲食を共にされる(相嘗・あいなめ、共食・きょうしょく)新嘗祭の核心ともいうべき厳粛な儀だ。こうして御親祭(ごしんさい)を終えられた天皇は、神嘉殿を御退出される。続いて天皇は、同じく神嘉殿で深夜から明け方にかけて「暁の儀」 を御親祭される。
このように天皇は、夜を徹して、最高の鄭重さをもって神々をおもてなしになるのだ。
(※注2)ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)がアマテラス(天照大神)から斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けられて天降ったという天孫降臨神話に基づき、新穀を食する(きこしめす)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神と一体になることである。そういう意義をもって行われるるのが大嘗祭であり、それを年々繰り返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭だ。
また、新嘗祭、神嘗祭とも、新穀を捧げるという点では同じである。異なる点は、新嘗祭が天皇自ら供え物を行い、また、自らも食するということである。この違いが新嘗祭の大事な意義を示している。
つまり、新嘗祭は単にその年の収穫を感謝するだけではないということだ。天皇が神々と食事を共にすることにより、国に豊かな実りをもたらす霊力を身に付けることに目的がある。
『記・紀』神話によれば、アマテラス(天照大神)から豊穣の力を受け継いだ天孫・ニニギ命(日子番邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が日本を「平らかに」するために、高天原の地に降り立ったことから国作りが始まったとされている。そして、歴代の天皇は、そのニニギ命以来の豊穣の霊威を受け継いでいくのだとされた。
スサノヲ(スサノオ)

◆「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(一)
◆◇◆「新嘗祭」、稲の王・天皇家の最重要祭儀、天皇家の宗教的権威の源泉
新嘗祭(にいなめさい)は古くは、旧暦十一月の下卯(しものう)の日、宮中の新嘗祭は、前夜の鎮魂祭に引き続いて行われた(現在、十一月二十三日から翌日にかけて神嘉殿で行われる)。新嘗祭は新穀の収穫を祝う祭りである(秋に行われる稲の収穫感謝祭である)(※注1)。
しかし、即位した天皇の初めての新嘗祭を大規模にしたのが大嘗祭(※注2)であることなどから考えれば、収穫祭と王権祭儀が結び付いた祭りということがいえそうだ。
稲の祭りは天皇家の宗教的権威の源泉であり、古代から現代に至るまで、新嘗祭は宮中祭祀の中で最も重要な祭りとされてきた(※注3)。
天皇の政治的地位や機能が時代により大きく変化しても、天皇は古来より一貫して神を祀る存在であり、新嘗祭は暗闇にて新穀を神に捧げ、共食(※注4)する稲の王・天皇家の最重要祭儀であったのだ(稲作農耕国家の大神主・祭祀王としての天皇が、五穀の豊穣を祈念し感謝する祭りである)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)新嘗祭は天皇のみではなく、一般庶民の間でも行われていた。現在は十一月二十三日の「勤労感謝の日」が新嘗祭の日である。もともと農村では、稲の刈り上げが終わった後に、田の神の苦労を労い一年間の感謝を捧げる祭りが行われていた。これが本来の収穫祭である。
時期はだいたい旧暦の十月から十一月頃(現在の十一月~十二月)で、今でも農村では、「田の神送り」の祭事が営まれ、秋から冬にかけての祭りである。西日本では旧暦の十月の亥の日に田の神が帰られるとされ、亥の子祭り、亥の日祭りが行われる(稲の刈り上げの祝いとして新米を搗いて食べる習慣があり、これを亥の子餅といい、そもそもは田の神に捧げる供え物であった)。
また、「田の神迎え」などといって、田の神を家に招いて饗宴する地方もある。特に能登の「アエノコト」は有名だ。
(※注2)新天皇が即位に際して御代の初めに行われる「大嘗祭」は、天皇が日神・アマテラス(天照大神)と新穀を神人共食(御直会=おなおらい)し、神霊と一体化し、霊力・資質を身に付け、天皇位を神権的に継承(天津日嗣=あまつひつぎ)する大切な儀式である(大嘗祭の主祭神についてはタミムスビとも、大物主神とも・・・)。
これに対して、毎年秋に行われる新嘗祭は、この時期の太陽のように、一年間活動して衰弱した天皇の霊威を強化・更新する祭祀といえる。ともに天皇が天皇であるための重要な祭りである。
(※注3)『記・紀』神話によると、アマテラス(天照大神)は、ウケモチ(保食神)から五穀の種子を得て、それを高天原の御田で育て、大嘗祭(おおにえ)を行って食していた。
その五穀の種子は地上に降臨する天孫・ニニギ命(瓊瓊杵尊)に授け、この五穀の元種は、地上の人々に穀物の実りをもたらしたのである。そのため稲の元種を授けてくれた皇祖神に感謝し、神とともに新穀を食することで、いよいよ天皇の徳を増すとされた。これが新嘗祭なのである。
天孫・ホノニニギ命(日子番邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)やその父神・アメノオシホミミ命(天忍穂耳命・天忍穂耳尊)の神名が稲穂を意味することから、稲の神格であることを表している。このように弥生稲作文化を、神話世界(斎庭の稲穂、豊葦原瑞穂国)と神事儀礼(斎田の栽培と初穂の直会)によって再演(再現)され続けているのだ。
(※注4)神と飲食を共にすることを「直会(なおらい)」(共食信仰)という。今では、祭りの後に、神饌(季節のものや初物など、収穫したばかりの新鮮で清浄な食べ物が尊ばれ、神に供えられた)を下ろして神職や氏子が食べる酒宴を「直会」といっている所がほとんどだが、本来は「嘗(な)め合い」「嘗(な)むり会(あい)」が転じたもので神と人とが一緒に食事をすること(神人共食)であり、神祭りの中心行事であった(祭りとは、神というこの上なく貴い存在を歓待する行為である)。
これは神と人との最も大切な接触であった。神様用(神饌用・神供用)の食物を通じて神の霊力が体内に入り、神と深く交わり合うことができると考えられたのである(赤飯がめでたいとされるのは、それが元々神饌のための特別な調理だったからだ)。こうした習俗・習慣(共同飲食行為)は日本人の心理に深く浸み込んでいる。
スサノヲ(スサノオ)

◆「鎮魂祭」、新嘗祭前日の天皇家祭祀(二)
◆◇◆「鎮魂祭」、古代信仰から生まれた生命エネルギー活性化の神事(祭祀)
古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」(※注1)と呼んだ。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのである。
病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していた。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのである。
「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きである(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違うが、生命エネルギーの活性化という意味では同じである)。
神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのだ。
「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法である(※注2)。
そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのである(※注3)(※注4)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)気や心(目に見えるものではないが、誰もがその存在を認めているもの)に大きな影響与えるものとして(もっと奥深い所にあるものとして)、また人間の生命力や活動力を支配するものとして、しかも気や心のようにその存在が意識にのぼってこないものとして、「タマ(魂・玉)」という霊魂の存在が考えられていた。古代日本人が最も重視したのがこの生霊(いきみたま)なのである。
(※注2)神道では何よりも若々しい躍動する生命力を尊び礼賛する。ではなぜ旧暦十一月に鎮魂祭が行われるようになったのであろうか。それはちょうどこの頃が冬至にあたり、太陽の活力が最も衰える時期であったためだ(太陽の活力が弱まる冬、人や天皇の魂も弱まると考えられた)。
日神・アマテラス(天照大神)の天岩窟戸神話には、冬至に対する古代人の信仰的要素が反映されていたと考えられている(天岩窟戸神話は日蝕現象など様々に議論されているが、天皇の御魂を鎮める鎮魂祭と結び付いた神話であったようだ)。
宮廷祭祀の鎮魂祭(日神の御子である天皇の霊力を賦活をはかる儀礼)は、その後も旧暦十一月の寅の日(現在は十一月二十二日。天皇だけでなく、皇后、皇太子及び皇太子妃に対しても行われる)と定められ、長らく宮廷秘儀の日となった。
(※注3)鎮魂祭(ちんこんさい、みたまふりのまつり、みたましずめのまつり)の趣旨は『令義解』に、「言は遊離の運魂を招き、身体の中府に鎮む」というように、そもそもが天皇の霊魂を呼び返し、体に込めようとする、一種の魂返しの呪法である。
『日本書紀』「天武紀」天武天皇十四年(六八五年)の記述では、「招魂(たまふり)」という字を当てており、古訓は「ミタマフリ」と読んでいたようである(この年の九月から天武天皇の病状が悪化したので、この日にミタマフリが行われた)。
その鎮魂の意味するところは明らかで、衰微する魂の振り起こし(振起)が試みられ、病を除去することを目的にしたのである。
(※注4)天皇の霊魂が身体から離れるのを鎮め、衰える魂を奮い立たせるための祭りとされるが、一方では天皇が親祭する大嘗祭を無事に行うための「邪物」を防ぐための祭りだともいわれている。
これは魂が遊離するのは悪神邪霊の類のはたらきかけによるものとされ、さらに「鎮」の字そのものが遊離して祟りをなす死霊(怨霊・悪霊・邪霊の類)を鎮めることを示すものであるとされているからだ。
スサノヲ(スサノオ)

◆「鎮魂祭」、新嘗祭前日の天皇家祭祀(一)
◆◇◆鎮魂祭、新嘗祭前日の天皇家の祭祀(宮廷秘儀の祭祀)
鎮魂祭(ちんこんさい)は、『神祇令』や『貞観儀式』、『延喜式』などに見られるように、古代は宮中で仲冬の旧暦の十一月、毎年行う新嘗祭または天皇即位の大嘗祭の前日の寅の日に行われていた(現在は十一月二十二日夕刻)。
この祭りの趣旨は『令義解』に、「言は遊離の運魂を招き、身体の中府に鎮む」というように、そもそもが天皇の霊魂を呼び返し、体に込めようとする、一種の魂返しの呪法で、『日本書紀』「天武紀」天武天皇十四年(六八五年)などでは、「招魂(たまふり)」という字を当てている。
神道では何よりも若々しい躍動する生命力を尊び礼賛する。そのために行う鎮魂法は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法である。枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する呪法だ。
鎮魂祭の儀式「ミタマフリ」(※注1)と「ミタマシズメ」(※注2)は、神秘的である。
「ミタマシズメ」は、身体から離れていこうとする不安定な霊魂を安定させるための儀式である。「ミタマフリ」は、身体の中府(ちゅうぶ)に鎮まった霊魂を、揺り動かして活性化させるための儀式である。
特にこの儀式で、「ミタマフリ」の所作は、ニギハヤヒ命(饒速日命)が所持していた十種の神宝(天璽瑞宝十種)を用いた呪法に由来するといわれている。
鎮魂祭の儀式の「ミタマフリ」の所作が、ニギハヤヒ命(饒速日命)が所持していた十種の神宝に由来することも謎だが、天皇家の祭祀(宮中祭祀)は、あまりにも謎が多く存在する(※注3)。
大嘗祭・新嘗祭とその前日の鎮魂祭は本来別々の祭儀ではなく、一続きの祭儀であったようだ。二つの祭儀を結び付ける考えとして、「古い太陽が死んで、新しい太陽が誕生する祭り」であったと考えらる。
鎮魂祭は、冬至の頃の太陽祭儀であり(※注4)、冬に衰える太陽の光熱の回復のため、太陽の神の裔の「日の御子」に対して、「タマフリ」を行うのが本来の意味(趣意)であったようだ。こうした太陽祭儀の太陽信仰と農耕祭儀の穀霊信仰が習合し、これが王権と結び付いて大王(天皇家)の王権祭式となっていく(※注4)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)鎮魂祭の儀式で、「ミタマフリ」の所作は、ニギハヤヒ命(饒速日命)が所持していた十種の神宝(天璽瑞宝十種)を用いた呪法に由来するといわれている。『先代旧事本紀』によると、ニギハヤヒ命(饒速日命)の子にあたるウマシマヂ命(宇摩志麻遅命)が、この十種の神宝(天璽瑞宝十種)を用いて神武天皇や皇后の心身安鎮(しんしんあんちん)を祈ったと記されている。
「所謂(いわゆる)御鎮魂祭(おおみたまふりのまつり)は此(これ)よりして始(おこ)れり」。『先代旧事本紀』による鎮魂祭の「ミタマフリ」の起源である。
(※注2)もう一つ『古語拾遺』に、「ミタマフリ」と「ミタマシズメ」の鎮魂祭の起源が記されてる。「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡(あと)なり」。
それによると、『記・紀』神話の天岩窟戸に籠もった天照大神に対して、天鈿女命が天岩窟戸の前で踊った伝承(天照大神を天岩窟戸より誘い出した伝承)から由来するそうである。「猿女の鎮魂」とも呼ばれていたそうだ。
(※注3)冬至は、農耕民において、「古い太陽の死ぬ日」であり、「新しい太陽の誕生する日」であったと考えられる。このことが象徴的に「天石窟戸神話」で語られたのかもしれない。
また、冬至頃は太陽や人間の生命力が衰える時期と考えられ、鎮魂祭を行ってそれを再生強化してきたのである。いわば若々しい生命復活の呪術儀礼であったのだ。
(※注4)天皇家の祭祀(宮中祭祀)「鎮魂祭」の儀式は、「ミタマシズメ」と「ミタマフリ」の両者の技法が伝えられている。鎮魂祭の儀式の技法が、両者あることについては、『古語拾遺』が忌部氏によるものであり、『先代旧事本紀』が物部氏よる書物であることによるそうだ。
ちなみに、石上神宮の鎮魂祭・石上神宮に伝わる鎮魂法は、ニギハヤヒ命(饒速日命)伝来の鎮魂法だそうである。「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」という、ひふみの祓詞や十種の神宝の名を唱えるそうである。
まったくの余談だが、運動会で旗を振って「フレーフレー」と応援するのは、こうした祭りの名残かもしれない。
スサノヲ(スサノオ)

今回は日本の太陽信仰と天皇家の祭祀について書くことにする。
この太陽信仰は全世界に見られるものである。
◆太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)

※太陽復活祭と鎮魂祭
古くは旧暦十一月中の寅の日に鎮魂祭が執り行われていた。新嘗祭の前日にあたる。この祭は、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」と密接な関係があるようである。
鎮魂祭には、宮廷の御巫(おかんなぎ)が「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」の天宇受売命のように、歌舞を行う。その際、歌われる神楽歌がある。
「ノボリマス、トヨヒルメガ、ミタマホス」「ミタマガリ、タマガリマシシカミハ、イマゾキマセル」「タマハコモチテ、サリタルミタマ、タマカヘシスヤ」などと、歌われる。その意味は、体から遊離し、死した日神トヨヒルメ(アマテラス・オオヒルメのこと)の魂を呼び戻し、復活させようとして、タマフリを行うということのようだ。
(タマフリ(鎮魂)とは、体から遊離した霊魂を招き返す呪術である(起死回生の呪法)。
冬至の太陽信仰(太陽がいったん死んで生まれ変わる日だとの信仰)と太陽祭祀は、世界的にある。その祭は、太陽の復活と再誕生を祈り、衰えた光熱を更新させ、一陽来復を図ろうとする意図を持つものである。クリスマスも後世にはキリストの誕生になぞられていますが、もとは冬至の太陽復活祭だったといわれている。
日本の古代社会でも、このような太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られる。特に稲作農業にとって太陽は欠かすことのできない根源的なもので、各地に点在した古代豪族は太陽の祭祀権を持つことが、執政権を誇示することでもあった。
日本の古代社会の太陽祭祀を考えると、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」は、大和朝廷が国家の根幹に関わる太陽祭祀権を掌握したことを表すものである。
しかも、『記紀』神話の「天孫降臨神話」で、天孫・ニニギ命(邇邇芸命)はアマテラス(天照大神)の孫とされ、太陽神の直系とされる。たぶんに、政治的意図をもつ『記紀』神話は、最も重要な太陽神の祭祀を、その子孫が連綿と受け継ぎ執り行うという、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」を生み出したのだ。
鎮魂祭もまた、そうした呪儀を日神の化身である日の御子・天皇に対して行い(伊勢の太陽祭儀と物部氏のタマフリの様式を取り入れて)、それを王権祭式化したのが始まりのようである。
※太陽の道
日本の古代社会では、太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られる。太陽神の祭祀に深い関わりをもった古代の遺跡が、一直線上に並んでいるということで、「レイライン・聖線」「太陽の道」と名付けられている(神島と斎宮跡、三輪山と淡路島の伊勢の森が、一直線上に並んでいます)。
スサノヲ(スサノオ)