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◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(九)

2006年12月23日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:59 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(九)

◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(8)

 日本列島は、面積に比べて南北に広いため、和辻哲郎がいうようにモンスーン的風土(和辻哲郎は、その古典的名著『風土―人間学的考察』の中で、アジアのモンスーン的風土、アラビア半島を中心にした砂漠的風土、そしてヨーロッパの牧場的風土という三つの類型を設定した)としてひと括りに捉えることには、多少問題がありそうだ。

 太古の日本列島は樹相の分布をみても、照葉樹林(カシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類など)は日本列島の西半分を中心に分布し、東日本の大半は温帯落葉広葉樹林(ナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなど)に覆われていた。そのため、日本文化の源流を「照葉樹林文化」(※注1)だけで捉えるには無理がありそうである。

 日本の中央高地から東北・北海道南部にかけて広がるナラ・ブナ林帯には、縄文時代以来、独自の農耕文化・生活文化が営まれてきた。ナラ林文化(ブナ林文化)(※注2)の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富なことである(クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ウバユリなどの採集)。

 日光照射もあり植物種も豊富なため、狩猟対象となる動物(トナカイ、熊、鹿、海獣など)や漁撈の対象となる魚介(サケ・マスなど)も多くいた。これらの狩猟・漁猟・採集文化により、縄文文化はナラ林文化の下で発展しいった。

 東北日本には、照葉樹林文化と融合し稲作文化を発展させた大和政権(稲作を基盤として成立した大和朝廷)が東漸するまで、まったく異なる文化が花開いていたのである(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」(ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を生みました)と呼ばれる。

 日本の縄文文化は、主にナラ林文化(ブナ林文化)の下で、東北日本を中心に発展した(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれない)。

 このように、日本の文化の源流(基層)には、東西二分する別々の文化圏があったとされている(方言・味覚など)。

(※注2)三内丸山遺跡をはじめとする最近の発掘調査は縄文文化と縄文人のイメージを大きく変えた。集落の中央には直径一メートルの太い柱を使った大型建物を作り、そしてヒスイや漆を加工していた。

 クリを栽培し、周辺の森も人間が利用しやすいように管理していた。遠方から黒曜石や、琥珀などが運ばれ、交流・交易も活発であったと考えられる。定住生活が、本格的に営まれていたのである。

(※注3)東日本(ナラ林文化では、木の実-栗やくるみなどの堅花を加工して-は、そのまま食べられるので、冬の保存食として最適だったようだ)に比べて、西日本(温暖な照葉樹林文化では、木の実はアクが強く、そのままでは食べられなかったようであす)は食糧に乏しかったのか、日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で、東北日本を中心に発展した(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれない)。




スサノヲ(スサノオ)


◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(八)

2006年12月23日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:41 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(八)

◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(7)

 東アジアの照葉樹林帯(※注1)では、採集や狩猟など山や森での営みには必ず山の神の加護を祈っていたようである。例えば、焼畑の造成(森林を伐採・火入れ)に先立っても山の神に供物と祈りを捧げてきたようだし、村の男たちが総出で狩猟に出かけ、獲物の多寡で豊凶を占う儀礼的狩猟の慣行も広くみられる。また、死んだ人の魂が、山の頂上へ上っていくとする宗教的観念があった。

 こうした文化は照葉樹林文化(※注2)と呼ばれている。この照葉樹林文化の特色を生み出した生活文化の基層には、山と森への深い信仰があったことを窺い知ることができる。(※注3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓を起点として中国・雲南省、長江以南、台湾を経て南西諸島、日本の南半分に至るまで、帯状に分布していた。

 照葉樹林(年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、クスノキ、タブ、ソテツ、ツバキ類等の常緑広葉樹林)は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強く、いくら樹を切っても自然の状態に戻せば砂漠化せず、やがて常緑の森林に戻る。

 昼なお暗い神秘の森の辺に住んだ人々が、心象風景として森の生命の息吹きのなかに、神々の世界を見い出したのである(神の宿る恐ろしい森とは、鬱蒼と樹木の茂る暗闇の照葉樹林の原生林であった。そうした森は、自然本来の生命力を持ち、人間にとっては恐ろしく凶暴なものであったが、神秘的な生命力の宿る神々の坐す森や山であったのである)。

(※注2)照葉樹林文化には、各民族に共通する多くの文化的要素がある。イモ・雑穀・茶の栽培、綿花・柑橘類の栽培、養蚕、漆器の製造、麹を用いた酒・味噌の醸造、豆腐・納豆・餅・な熟れ鮓の製造など多岐にわたる。

 またその後、焼き畑農耕や大豆発酵食品のみならず、神話や儀礼・習俗(ハレの日に餅を食べる習慣や歌垣などの生活文化、麹酒は山の神への祈りに欠かせない供物であった)など、精神文化の共通性も知られるようになり、いまや日本の深層文化を形成するものと考えられている。

 さらに照葉樹林文化の基盤はイモ・雑穀類を主とする焼き畑農耕であるところから、稲作文化誕生の母胎となった文化であるとする考えもある。

(※注3)照葉樹林文化の特徴を一言でいえば「循環と共生」ということになる。この文化の地帯では、狩猟採集と小規模な栽培を生活の基本としていたため、森や水がもたらす恵みとその再生力に見合った程度の生産活動しかしてこなかったと考えられる。

 そして森や水辺の動植物や滝、樹木、岩石等に八百万神の存在を認め、獲り過ぎや行き過ぎた開発は祟りを被る行為として厳しく戒めていたようだ。このような多神教的な信仰形態は地域社会に異文化・異端を受容する風土(寛容さ)を生み、多様な価値観の中で共に調和して生きていこうとする精神が育まれていたと考えられる(共生の精神)。




スサノヲ(スサノオ)


◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(七)

2006年12月19日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:59 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(七)

◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(6)

 三輪山の大物主神の信仰は、三輪山周辺を支配していた火・水・死と再生を司る山の神の精霊であり(雷神・蛇神でもある)、高天原系部族の来住以前に大和に住む先住族が崇拝していた国魂の神であった。

 また、ヤマトタケル命(倭建命)の説話では、伊吹山の荒ぶる神を退治しようと出かけたところ、その山の神は大蛇となって道を遮り、雲をおこし、雹を降らせたという。山の神は蛇体となるだけでなく、時には白猪や白鹿となって現れる。

 このように日本の山の神は、三輪山の大物主神や伊吹山の荒ぶる神のように、山の神→蛇、坂の神→鹿などと、神の使い(attribute)・神の具現としての山河の荒ぶる姿として登場してくる(世界の神話にも多く見られる)(※注1)。

 『記・紀』神話のなかには、大物主神の出現をどのように描写しているのであろうか。オホナムチ命(大穴牟遅命・大穴持命・大己貴命)の国作り説話のなかで、海を照らして依り来る神(この時に海を光して依り来る神ありき『古事記』。時に神しき光、海を照らして、忽然に浮かび来る者あり『日本書紀』)と述べている。

 海を照らす神は、豊穣をもたらすマレビトであり、原初の太陽神・海神であったのだ。古代の人々にとって自然がそのまま神(太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに神が宿るとするアニミズム)であり、神がそのまま自然であったのである。人間はこの自然の懐に抱かれ、生きてきたのだ(生かされてきたのである)(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)神話の世界は、アニミズム(精霊崇拝)や普遍的な自然信仰を底流にし、宇宙の成り立ちから歴史上の事実と思われることへの探求、自然の力や人間の死後と再生への探求へと広がりをみせる。

 そのイメージは、経験的、客観的、合理的にみれば意味のない抽象的なもの(神話的、非合理的な思考によるもの)に思えるかもしれないが、神話学者のジョゼフ・キャンベルが述べているように、「詩的な、神秘的な、形而上的な」感覚をもってみれば、神話をイメージした古代人の死生観や世界観の精神構造(精神世界、民族の深層意識を語り継いだ物語)が浮かび上がってくる。

 古代の人々は、死と再生の円還的循環(生命の永遠、霊魂の再生と循環)を通して、自然を畏敬し(共生し)、自然(生命の再生と循環システム、生きとし生ける者はすべて大地から生まれ大地に還る、多様性の中の共存)の懐に抱かれ調和してきたのである。

 しかし、現代文明は神話的、非合理的な思考法から脱却すところから、学問研究の諸分野が形成され、近代的文明が形成されていきた。こうした科学技術の発展と文明の進歩(生命の最内奥の仕組みから宇宙空間の構造の研究と知識)は、人間の自然への畏敬の念を奪い(科学技術の発展は、自然を支配できると考えるようになった)、地球環境の汚染と破壊をもたらしている。

 現代人は、今一度、古代の人々が自然と宇宙の間に神秘で偉大な生命力を直感した壮大な想像力を思い起こさなければならないのかもしれない(古代の人々は、物質的なものよりも霊魂の方がより現実的と感じて、個人それぞれが魂の完成に力を注いでいたのかもしれない)。

 神話が伝えてくれる古代人の精神(感性)が、一元的文化(アメリカ文化を代表する今日的な世界状況)によって席捲される中、多様な文化(マルチ・カルチャリズム)の広がりをもたらし、多様性の中の共存の理念を築いてくれるかもしれない。

(※注2)自然=神は、人間の想像を超えた(人智を超えた)計り知れぬ力を持ち、人間に豊かな恵みを与え、ときには底知れぬ猛威を振るう。それゆえ古代の人々は、自然の恵みに感謝をし、自然の猛威に畏怖し、ただその怒りを鎮める以外になく、その自然の偉大な力が神として崇拝されたのである。

 自然からするとどうしようもなく小さな存在(無力な存在)でしかない人間は、豊かな想像力(プリミティブな心性)を大いに働かせ、太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに対して、生き生きとした自然観を心象風景としてとられたのだ(原初的な自然観)。

 古代の人々は山川草木に宿る想像を超えた大自然の力に神秘的な神性を感じ、その自然に対して無条件に畏敬の念を抱いたのである(自然崇拝)。




スサノヲ(スサノオ)


◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(六)

2006年12月18日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:59 Comments( 3 ) 神話に見る日本文化考



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◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(5)

 三輪山の山中には至る所に磐座があり、太古よりの多くの祭祀遺跡が出土している(※注1)。縄文時代には死と再生の循環を司る神霊・蛇神(大地の神霊)が広く信仰されていたことであろう。三輪山もそうした蛇神信仰の象徴としての神奈備山(蛇がトグロを巻いた姿形)であったのだ(※注2)。

 また、そうした神が磐座に降る(宿る)とする信仰が起こり(磐座信仰)、その遣いの蛇神、雷神の信仰へと発展していく。弥生時代になると、稲作の普及と共に水神(雷神・蛇神)、日神信仰(太陽・陽光信仰)も入り、最終的に大物主神へと人格化されていったようだ。

 三輪の神は古代よりこの地方の祖神として崇敬が篤かったのである(高天原系部族の来住以前に大和に住む先住民族が崇拝していた国魂の宿りし山=三輪山であり、火や水、死と再生を司る山の精霊であり蛇体の主=大物主であった)(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)原始信仰では神木が神籬(ひもろぎ)とされ、巨石が磐境・磐座となり、精霊が来臨し鎮座して神奈備山になった(自然崇拝のナショナリズム)。磐座は神の降り立つ巨石の寄り代のことであり、神奈備山は神の住まう山のことである。

 このような信仰は、自然物を通じて感じられる「隠れ身の神性」への畏敬の念であった。具体的なモノの背後に感るインスピレーション、聖なるものの感覚である(モノ=精霊と古代の人々は考えていた)。大神神社には今でも本殿がないが、それは三輪山自体が御神体だからである。

 その後、剣や鏡、勾玉などを用いて豊穣を呪術する呪物崇拝のフェティシズム、巫術で精霊やカミと交流する術を身に付けた巫覡(ふげき)が行うシャーマニズム(原初的体験、脱魂=他界飛翔=エクスタシー、憑霊=神懸り=ポゼッション、忘我=恍惚=トランスを通して、超自然的な世界と人間界の交流を可能にする)などの信仰が混在し、弥生時代における稲作生産の発展のもとで祖霊信仰も生まれていく。

(※注2)太古より、山は人間の生活圏であるとともに神の領域であった。山に入るにはきびしい禁忌が科せられ、限られた時、限られた人以外は立ち入ることのできない神聖な場所でもあったのである(禁足地、神域)。ことに神の坐す神奈備と呼ばれる山は特別に崇められた。

 たとえば、三輪山や富士山のような円錐形をした山や、二上山や筑波山のように二つの峰をもつ山は、神の坐す山として信仰の対象となり、山そのものが神(神体山)であったのである。こうした考えは古くから人々に、常世国(他界・異界)から依り来る神が山を目印として寄りつく場所だと考えられていた。次第にそこに神が常住するのだと認識されるようになっていったようだ。

 このことからも、神の坐す聖なる山(神奈備山・神山)とは、神の世界と人間の世界との境目として神と人とが交わる場所だということがいえそうである。

(※注3)太古より山に超自然的存在を見出す、アニミズム的観念ともいうべき自然物信仰があったことは、日本だけでなく普遍的な精神観・宗教観であった。超自然的存在に畏れ多いとする観念のなかに、畏怖・畏敬の念を抱く原初的山岳信仰を窺うことができる。

 古代には、人は亡くなると肉体から霊魂が離れ、その霊魂は祖先として残された家族を見守るとされている。そのことから生存者は、自分達を守護してくれる祖先の霊を尊く崇敬する。ここに祖霊への信仰が成立するのである。

 この際、祖霊があの世に行く前に集まる場所は山とされたり、時には山自体があの世とされ、祖霊の宿る場所とみなされるケースが、全国各地に残されている。このことからも、山は畏れ多い場所と考えられ、祖霊信仰における信仰対象に位置付けられた。

 古代の信仰には、山は神の宿る場所、もしくは神そのものであるとする精神観がある。こうした神奈備山信仰から、人は畏れ多いということで山には踏み入ることがなかった。そこで山麓や平野部から山を崇めようとする信仰形態が生まれたと考えらる。ここから禁足地という概念と、麓から神祭りを行なう山麓祭祀が発生するのである。




スサノヲ(スサノオ)


◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(五)

2006年12月17日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:59 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(五)地図はこちら

◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(4)

 三輪山を御神体(山そのものが御神体=神奈備山)とする大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県の桜井市にある。三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山(倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し)の中でもひときわ形の整った円錐形の山(高さが四百六十七メートル、周囲十六キロメートル、南は初瀬川、北は巻向川の二つの川によって区切られ、その面積はおよそ三百五十ヘクタール)で、古来より神の鎮まる山として御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と称され崇拝されてきた(山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧を入れることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われている=千古不伐。いまでも禁足地として神社の許可がないと登れないそうだ)。

 そうしたことから、大神神社に本殿はなく、拝殿裏の三ツ鳥居を通して直接に三輪山を拝する形になっている(※注1)。境内は蛇との縁が深く、参拝に行くと拝殿下の手水所で、まず蛇に迎えられる。蛇の口から出る水で清めをして拝殿に向かうと、右手に「巳の神杉」という大杉がある。ここには蛇(巳=みいさん)が祭られていて、いつも蛇の好物であると言われる卵と酒が供えられている。このように古来から、三輪山は根強く蛇信仰が残る山であった(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)三輪山は山全体を神体山として古代信仰をそのまま今日まで伝えており、古代祭祀信仰の形態を知る上で重要な史跡である。神社は拝殿のみがあって本殿はなく、三輪山の山中には三カ所の磐座がある。中でも辺津磐座がその中心で、三ツ鳥居からこの辺津磐座までが古来から禁足地とされ、三輪山祭祀の中心の場所だ。

 この禁足地からは須恵器や子持勾玉のほか、おびただしい量の臼玉が出土している。また大正七年(一九一八年)に発見された山ノ神遺跡は祭祀用の土製模造品のほか、無数の石製品・須恵器・勾玉・臼玉・管玉・小形銅鏡などが出土している。

 これらの遺跡は弥生時代に始まり、奈良時代に至る三輪山麓における古代祭祀の実態を示す貴重な遺跡とされている。また神域内は、三輪山を中心に、天然記念物として価値のあるものや、重要文化財としての拝殿はじめ、名勝・遺跡・建造物を含む神社境内地としての史跡だ。

(※注2)原始信仰においては、蛇は水の神・山の神の顕現として崇拝されていた。また、蛇はその特異な姿形、脱皮という不思議な生態、強靭な生命力、その恐るべき毒などによって、古来、人々を畏怖させてきたばかりか、強烈な信仰の対象ともなってきた(蛇はその形から男性性を、脱皮するその生態からは出産=女性性が連想され、古代日本人は蛇を男女の祖先神として崇拝したようである。神=蛇身・カミか?)。

 さらに、祖霊が住まう山(神奈備)を蛇がトグロを巻いた形として連想され(蛇の最も特徴的な姿がトグロを巻いた姿形である)、三角錐の山(円錐形の山)を拝むようになったと(信仰の対象となったと)考えられる(神奈備山信仰)。大和の三輪山がその代表的な(典型的な)例である。日本人にとってカミとは何か? その問いは、古代日本人の死生観・世界観、ひいては日本人そのものを問うことになりそうだ。




スサノヲ(スサノオ)