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◆成人式の神話的元型、大国主の試練(ニ)

2007年01月07日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆成人式の神話的元型、大国主の試練(ニ)

※神話の成年式(二)

 二段目の試練とは何か? 母の力により死から再生したオホナムヂ(大穴牟遅)はその後、スサノオ命(須佐之男命)のいる地下界(根之堅州国)に逃れ、将来の妻となるスサノオ命(須佐之男命)の娘・スセリ姫(須勢理毘売)と出会う。

 しかしそこでも待っていたのは、スサノオ命(須佐之男命)による四つの試練であった。初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に寝かされ、次の夜にはムカデと蜂がいる室に寝かされる。この2度の難局は妻となるスセリ姫(須勢理毘売)から渡されたヒレ(比禮)の力で切り抜ける。

 すると今度は、オホナムヂ(大穴牟遅)はスサノオ命(須佐之男命)から、野原に打ち込んだナリカブラ(鳴鏑)という矢を探せと命じられるが、その背後から火が放たれる。そこにネズミ(根棲み)が登場し、教えられるままに穴の中に隠れて、この試練も見事成就する。

 最後の試練では、やまたの大室と呼ばれる所でスサノオ命(須佐之男命)の髪の毛に棲むシラミを取れと命じられるが、よく見るとこれが実はムカデであった。スセリ姫(須勢理毘売)の知恵(椋の実と赤土でムカデを退治する)でこの難局もついに切り抜る。

 オホナムヂ(大穴牟遅)は、スセリ姫(須勢理毘売)とともに逃げることになる。夜、スサノオ命(須佐之男命)が眠りこけている間に髪の毛を一握りずつ柱にくくりつけて、入り口の戸の前に大きな石を置いて逃げる。

 その時、スサノオ命(須佐之男命)のもつ、権力の象徴である宝物のイクタチ(生大刀)、イクユミヤ(生弓矢)、アメノノリゴト(天詔琴)を奪い、地下界(根之堅州国)を脱出する。

 これに気づいたスサノオ命(須佐之男命)はヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)まで追ってくるのだが、ここで諦めてオホナムヂ(大穴牟遅)に「大国主」の名を命名し、二人を祝福するのである。

 スサノオ命(須佐之男命)がオホナムヂ(大穴牟遅)に言い放った言葉である。「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」

 このスサノオ命(須佐之男命)が仕掛けた試練である「成年式」を経て、青年神オホナムヂは大人神である大国主となり、そこで出会った妻・スセリ姫(須勢理毘売)と結ばれることで、神聖王の条件である(大人の条件でもある)「豊穣さ」を獲得することになるのである。

 また、そこで得た神宝によって豊葦原中国の国造りを進めるのである。イクタチ(生大刀)、イクユミヤ(生弓矢)は武力権力の象徴を表すが、アメノノリゴト(天詔琴)は宗教的権威のしるしである。


スサノヲ (スサノオ)


◆成人式の神話的元型、大国主の試練(一)

2007年01月06日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆成人式の神話的元型、大国主の試練(一)

※神話の成年式(一)

 成人の日の一月十五日(今は、第二月曜に変更)は、小正月に昔の成年式(成人式)がこの時に行われていたことからそうなったそうだ。その成年式の元型(アーキタイプ)が『記・紀』神話のオオクニヌシ命(大国主神)の神話にある。

 オオクニヌシ命(大国主神)の「大国主」とは、青年神であったオホナムヂ(大穴牟遅)が「成年」して得た名である。「成年」とは試練としての通過儀礼をくぐり抜けることであり、それは子どもの自分(青年神のオホナムヂ)が死んで大人の自分(成年神の大国主)として再生することである(一度死んで、新たに生まれ変わるということである)。

 オホナムヂ(大穴牟遅)が見事「成年」を果たし、試練の場を立ち去るとき、地下界(根之堅州国)の王・スサノオ命(須佐之男命)がオホナムヂ(大穴牟遅)に投げ与えた名こそ、「大国主」であった。はれて、オオクニヌシ命(大国主神)となったオホナムヂ(大穴牟遅)は地上界(豊葦原中国)の国造りに励むわけである。

 『古事記』に記述されているオホナムヂ(大穴牟遅)が受ける「成年」の試練は二段に分かれる。一段目は、八十神の迫害説話のなかの、兄弟神(八十神)から受ける二度の試練である。

 まずは、兄弟神から「我々が山から赤猪を追い出すから、麓でそれを受けとめろ」といい、兄弟神は赤く焼けた巨石を転がし、それをしっかり受けとめたオホナムヂ(大穴牟遅)は焼け死にする。さらに兄弟神は木に仕掛け(大木に割れ目を作り、クサビで止め)をされ、これに挟まれて死ぬ。

 その度に母神・サスクニノワカ姫(刺国若比売)が再生させる(生き返らせる)。この大地母神(グレート・マザー)のような母の力はどこから来るのであろうか。

 母神・サスクニノワカ姫(刺国若比売)は、我が子・オホナムヂ(大穴牟遅)が兄弟神(八十神)に殺されたことを知り、天に上っていって神々のいる高天原のカミムスビノ神(神産巣日命=.神魂命)に助けを請うのである。

 すると看護婦として赤貝の精の女神キサガイ姫(支佐加比比賣)とハマグリの精の女神ウムギヒメという、貝の二女神を派遣して、オオクニヌシの手当てをさせる。

 その治療法はキサガイ(赤貝)の貝殻を削って粉にしてウムガイ(蛤)の汁で練って体に塗りつけたのである。そうすると、大やけどはきれいに治り、オホナムヂ(大穴牟遅)は再生する。


スサノヲ(スサノオ)


◆神話の世界観、本能的に世界の本質を感じ取る

2007年01月06日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆神話の世界観、本能的に世界の本質を感じ取る

 神話とは何か。この問いに対して多くの学者がさまざまに定義を試みてきた。

 それらの学説は多岐にわたるが、例えばルーマニア生まれの宗教学・宗教史学者ミルチャ・エリアーデは「神話と現実」の中で次のように論ずる。

 「神話は神聖な歴史を物語る、それは原初の時、『始め』の神話的時に起こった出来事を物語るものである。いいかえれば、神話は超自然者の行為を通じて、宇宙という全実在であれ、一つの島、植物、特定な人間行動、制度のような部分的実在であれ、その実在がいかにもたらされたかを語る。そこで、神話は、常に『創造』の説明であって、あるものがいかに作られたか、存在し始めたかを語る。」

 今と違って、古代の人たちは素朴だが、純粋に、本能的に世界の本質を感じ取っていた。それを、物語として未来に伝えているのかもしれない。

 もしかして、現在の緊張した国際社会、複雑な人間関係の中で生きる現代人にとって、神話が与えてくれる新しい視点は、新たな問題解決のヒントを与えてくれるかもしれない。


スサノヲ(スサノオ)


◆神話の死生観、死を発見し理解し概念として他者と共有した

2007年01月05日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆神話の死生観、死を発見し理解し概念として他者と共有した

 死の概念は、人類の進化とともに現れてきた。

 ネアンデルタール人は、死を理解し、死者に花を供えたという。日本でも、縄文時代草創期に長野県野尻湖の遺跡で、死者に花が供えられていたことが花粉分析によって確認されている。

 人類以外の動物は死んだ仲間に花などを手向けない。人類が花を手向けたり、墓を作るのは、死を発見し、理解し、概念として他者と共有したからである。

 死の発見は同時に、生の発見でもあったのではないだろうか。生の発見は、生命や霊魂についての観念、死後の世界や他界についての観念の生成を意味する。

 つまり、宗教の誕生である。

 人類の進化の歴史の上で、死の発見ほど偉大な発見はなかったと言っていい。それは精神世界のビックバンをもたらしたに違いない。

 世界各地に伝わる死の神話や叙事詩は、人類の祖先による死の発見と他界観念の生成をめぐる物語である。

 シュメールの女神イシュタルなどの神話は、日本神話のイザナミの国生みと黄泉の国神話と共通する部分がある。

 日本の神話の中に、死生観を見てみますと、
1、イザナギ・イザナミ神話
2、アマテラス・スサノオ神話
3、スサノオ・オオクニヌシ神話

 の中に見られるが、その中でも、1のイザナギ・イザナミの黄泉の国の神話に、生と死を分かつ物語が集約されている。

 物語は、高天の原から天下り、二神の結婚により大八島および神々が生まれる。イザナミは、火の神カグ土に焼かれ黄泉の国へいく。

 イザナギは悲しみ黄泉の国へ探しに行くが「見るな」の禁忌を破りイザナギの姿を見てしまう。イザナギは逃げて、黄泉比良坂で事戸渡しする。この後、イザナギは、死穢の禊祓により三貴神の誕生となる物語である。

 黄泉比良坂では、神々を生み出したイザナミが、死後一転して一日に千人ずつ人間をくびり殺す恐怖の死の神、黄泉津大神となり、イザナギは、されば一日に千五百人の人間を生もうと宣言する。

 このようにイザナミは、生と死の両界の創造者であり、死には、生者を死へと引きずり込もうとする力が内在すると考えられていたのだ。

 その死の力の影響を払拭する方法が、「『吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。故、御身の禊ぎせむ』とのりたまひて筑紫の日向の小門の阿波岐原に到り坐して禊祓ひたまいき」と記されているように、死の力を祓い清める行為である。

 禊ぎ祓われたわけであるが、そこに三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)の誕生となるのである。ここに生と死のダイナミックな循環のメカニズムを持つ死生観が見えてくる。

 神話とは、神と人と世界の始原を説く物語である。ここから学び取る事は、多々ありそうだ。


スサノヲ(スサノオ)


◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(十)

2006年12月24日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 09:00 Comments( 0 ) 神話に見る日本文化考



◆出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノヲ(十)

◆◇◆出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノヲ神話:大和の大物主神と大和朝廷(9)

 日本列島は春夏秋冬の四季に恵まれ、花鳥風月の四季の移ろいは、人々の風土と文化をかたちづくってきた基層となっている。春の花、梅雨の長雨、夏の緑、秋の台風・紅葉、そして冬の雪などは、日本の自然の豊かさの象徴でもある。

 私たちは、このような四季の自然の移り変わりを、当然のように享受しているが、実は、このような多彩な、しかもめり張りのある季節の移り変わりは、地球上、どこにでもあるわけではない。チベット高原・ヒマラヤ山脈の大山塊が、大気大循環の季節変化に大きく作用した結果、この山塊の風下側に位置する列島に現れた現象なのだ(※注1)(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)夏に至る時期には、チベット高原は大気を強く暖め、南のインド洋から大陸へと湿った空気の流れ、即ちモンスーンの気流を強めるが、その湿った気流の本流は高原の障壁効果と地球の自転効果で高原の東側、すなわち東アジア方面に向かう。

 一方、高原の北を迂回して乾いた偏西風も東アジアに南下して、南からの湿ったモンスーン気流と出会う。そこにできた不連続線が、梅雨前線だ。冬には、チベット高原が巨大な壁のように寒気を大陸内に塞き止め、時折風下側に、冷たい北西季節風として東アジアに溢れだす。暖かい日本海で熱と水蒸気をたっぷり供給されたこの季節風は、日本海側に大雪をもたらすことになる。

 こうした日本の気候の変化は、日本人に四季折々の風情や文化(習俗、文学、芸術など)を生み出した。哲学者の和辻哲郎はその著書『風土―人間学的考察』の中で、人間の精神はその風土に強く影響されると主張した。風土とは単に気候や地理的条件だけではなく、地質や地味、景観などを広く含んだ概念であるが、和辻は大きく三つの風土(アジアのモンスーン的風土、アラビア半島を中心にした砂漠的風土、そしてヨーロッパの牧場的風土という三つの類型を設定しました)を考え、それぞれの風土がどのような人間の精神を形作ってきたかを明らかにしようとした。

 和辻の風土論は、現在学問的には厳密さを欠くものと考えられているが、しかし人間の精神のあり方が、それらの人々の住む自然のあり方に大きな影響を受けて形成されるということは間違いないことのようだ。

(※注2)日本人の考えた神々は自然現象の神格化(また観念の神格化)であり、こうした神々を総称して「八百万の神」という(後に、各氏族の祖先神=氏神などの人格神が現れる)。

 日本人は自然の織りなす森羅万象(山川草木・生きとし生けるものすべて)に神が宿るという汎神論的な多神教の世界観を持ち、自然現象の中に霊的なものの存在を認めるアニミズム的神観念(精霊崇拝)を持っていた。

 日本の神は無限の恵みをもたらす神であると同時に、一瞬のうちに略奪の限りをつくす荒ぶる神でもあったのである(こうした両義性を持つ神に対し、豊穣をもたらす神をもてなし荒ぶる神の怒りを鎮め、祭りを通して崇拝してきた)。

 また、そのような神に対して、日本人は心情の純粋さを尊び、谷川の流れのように澄み切った濁りなき誠実さを尊んだのである。これが「明き・清き・直き・正しき心」(人間は本来、神の分魂と考えられました)である。

 この神に対して欺き偽るといった心(汚き心)がないこと、神の意志に一致している心である清明心は後代には事物や人に対して偽ることのない心情と考えられ、素直な心、天真な心、私心のない心、正直な心、誠の心というように日本人の倫理・道徳的心情となっていった。

 また聖俗の区別は美醜や清浄不浄と同一視され、罪とは身に付着した外面的な穢れ(日本人は血や死などの穢れを非常に忌み嫌いました)とされ、禊ぎや祓い(精進潔斎や人形祓いなど)によって取り除くことのできるものと考えられた(穢れを排除し、生命の輝きを取り戻そうとした古代の人々の思想であり、大自然に抱かれた魂の循環と再生のシステムである)。

 こうしたニッポン教ともいうべき聖俗観は、今日まで連綿と受け継がれているのだ。




スサノヲ(スサノオ)