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◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(二)
◆◇◆豆撒き、追儺と豆占と迎春呪術
今ではかなり簡略化されているが、民間における「豆撒き」は、まず大豆を煎って一升桝に入れ神棚へ供えた後、家長が「鬼は外、福は内」というよく知られる言葉を叫びつつ、部屋の中や出入り口に撒く。このような節分のスタイルになるのは、平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた「追儺(ついな)」(中国から伝わる儀式)に始まる。
古来からの農耕行事「豆占」と習合して「豆撒き」が全国に広がったのは室町時代頃から、そして今の形になるのは江戸時代だと考えられている。
豆は鬼の目を打って追い払うと考えられ、桝に残った豆(あるいはまいた豆)を自分の歳の数だけ食べると一年を無病息災に過ごす事ができるとするのが一般的である。
追儺の行事が入ってくる以前から、日本では農耕の占い「豆占」を行っていた。撒いた豆で一年の気候や吉凶を占う「豆占」(大豆を十二個灰の上に並べ、右から順に一月、二月、三月・・・と決め、豆の焼き具合によって月々の天候を占う年占=としうら)が地方に見られる。
この他にも、節分に柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿す風習が日本の各地で行われていた。さらに豆撒きには、陰陽道(陰陽五行思想)の迎春呪術としての意味が隠されている(「火剋金」)。このように様々な要素が入り込み、今日の日本式節分の行事が出来たといえよう。
余談だが、節分の日の横に切らずに棒状のままの巻き寿司を恵方に向かって食べると、幸福になるという言い伝えを広めたのは、海苔の消費拡大のために寿司業者と海苔業者が働きかけたことがきっかけである。
確かに大正の初めに大阪の花街で、お新香の漬けかかる節分の時期にお新香を巻いた海苔巻を恵方に向かって食べるという風習はあったが、それが太巻き寿司に変わり大手の寿司チェーン店の宣伝を通して全国的に広まったようなのだ。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 現在行われている豆撒きを始めとする行事の由来は、諸説はあるが中国の周王朝時代に編まれた「周礼」に則り平安時代に毎年大晦日(一説には二十八日)に行われた追儺(ついな)の儀式が元になっているといわれている。
「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を追い払う行事に他ならない。当時の「鬼やらい」は十二ヶ月それぞれの疫病神を表す十二匹の鬼に扮した鬼役と、松明を翳してそれを打ち据える役が立ち回りを演じるもので、豆を撒く習慣は無かったようだ。
また原形はやはり陰陽五行思想を元にした形であったようだ。豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり、これは節分の夜に十二ヶ月に擬えた十二個の大豆を灰の上に並べてその焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていた。
この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもする。この二つの行事が融合して一説によると鎌倉中期に、または室町初期に民間へ広まり江戸期になって全国的に現在の形に近くなったといわれている。
江戸中期以降の一般的な江戸での節分は豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿す。主人が神前仏前に灯りを点し、竃を清めて鬼打ち豆を煎って、煎りあがった豆は桝に入れてから三方へ載せてその年の年男に渡され恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち順に家中の部屋すべてへ豆を打つ。
(※注2) 節分の夜などに柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿し、「焼いかがし」という風習が日本の各地で行われていた。「焼っかがし」などとも呼ばれ、語源は「焼き嗅がし」である。
これは棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるようだ。もともとは、臭気の強いネギやニラ、また煮干しや髪の毛などを火にくべ、虫の口焼きと称し、呪文を唱えたそうである。
農家では、農薬が普及する前は、田畑の害虫を煙や悪臭で追い払ったのだ。それを害虫の活動がそろそろ始まると考えられた立春の頃に行っていたのである。この日本の伝統と中国の鬼払いの追儺の儀式が混合され、このような節分の行事が成立したと見られている。
スサノヲ(スサノオ)

◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(一)
◆◇◆節分とは、邪気を払い新しい春を迎える儀式。冬から春への変わり目
二月の節分(三日あるいは四日)に行われる「豆撒き」の行事は、現在でも神社や寺で広く行われているが、この行事は元々宮中で大祓えの一環として大晦日に行われていた「追儺(ついな)」「鬼儺(おにやらい)」という悪鬼・疫病などの厄払い行事(古くは中国に始まった儀式で、疫病・災害、陰気・寒気を鬼に見立てて追い払います。道教・陰陽五行思想=陰陽道の影響が色濃い儀式です)が元となっており、次第に民間でも行われるようになったものである。
旧暦(太陰太陽暦)では今の二月が一月であり、遥か昔は立春こそが本来の元旦であった。そして、立春の節分の日は本来の大晦日であったのである。つまり、明日が立春というこの日は一年の終わりであり(年越しの日に当たり)、新たな春を迎えるために家の中の邪気(冬の寒気とも)を払い福を迎えたのである。
すなわち節分は年迎えの行事でもあるのだ。今でも節分・立春に正月行事を行う例は少なくない。近畿地方では節分を「神の正月」などといい、神だけの正月を行うものとされている所もある。このように、節分の翌日は立春、春が始まる日である。この日には椿(つばき、木へんに春と書きます)の花を飾る。冬の寒気を払い春になったことを示す花とされるからである。
節分というと二月(和名月名:如月、梅月、木芽月、 初花月、雪消月、麗月など)の立春の前日(雑節の一つ。大寒より十五日目)のことと思われがちであるが、本来は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、一年に四回の季節の変わり目を意味する(昔は「せち分れ」といい季節が変わる節目)。
特に、一年の区切りとなる立春の前日が特に重視され、ただ節分といえば、二月の立春の前日を指すようになった。旧暦(太陰太陽暦)では「立春正月」といって、この日は年頭もしくは年の暮れに当たる(立春は冬から春への変わり目)。
古来日本では、季節の変わり目には、鬼に象徴される「厄」が生活の中に入り込み易いと考えられており、これを祓う「追儺式」や「鬼やらい」の儀式が行われた。つまりこれが、「鬼は外、福は内!」の「豆撒き」の風習であり各地の寺社での「鬼追いの節分祭」だったのである。
その後次第に民衆に広がり、「その昔、鞍馬の奥に人に害を与える鬼がいて、賢者がその鬼の目を三石三斗(六百リットル)の大豆で打ち、退治した」などの説話も生まれるのである。(※1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※1) 節分といえば、立春の前夜、「鬼は外、福は内」と豆を撒く行事をすぐに思い起こす。しかし元来、節分とは二十四節の内、大きく季節の替わりる立春、立夏、立秋、立冬の前日の日(雑節の一つ)を示す言葉で、古く平安時代の『源氏物語』や『枕草子』、また様々な和歌集などでは立夏や立秋の前日をも節分と呼んでいた。
節分とは関係なく、大晦日の夜、宮中では鬼やらいという行事があった。儺、追儺(おにやらい、ついな)とも表記されたが、殿上人が桃の弓と葦の矢で鬼に扮した者を追い回すという邪気=邪鬼を払う行事で、文武天皇の慶雲二年(七〇五年)頃に日本の起源を求めることができそうだ。
そこから約百八十年後の宇多天皇の頃には、立春の前夜に豆を撒くという行事に変わったようである。旧暦では、年内に立春が来てしまったり、正月松の内にたいてい立春を迎えるという事情から、いつしか追儺などの行事は立春前夜の節分にということになったと思われる。
また、節分の鬼や柊(ひいらぎ)と鰯(いわし)は付き物である(棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるそうだ)。この他、節分行事では厄払いの為に大豆やその他の自然の作物がたくさん使われ、自然に感謝しながら家族や隣人の健康と幸せを願う行事といえる。
紀貫之の『土佐日記』の中に、承平四年(九三四年)土佐の国を出発し都に向う船中、都の元旦を思い起こす件があるが、注連縄、柊とともに鰯ではなく鯔(ぼら)が出てくる。節分追儺と元旦行事がこの時代にはまだ混在していたようである。
ちなみに、俳句の世界で立春は春、節分は冬の季語となっている。また、この季節に咲く節文草(せつぶんそう) という花があり、これはキンポウゲ科の多年草で早春に咲き出すので、この名がある。山地の樹陰などに群落をなし、地中に球状の塊茎があり、高さ十~二十センチくらいで、二~三月頃になると白色五弁の小花を開く。
スサノヲ(スサノオ)