Posted by 滋賀咲くブログ at
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◆春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り

2007年03月31日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 09:18 Comments( 1 ) 年中行事に見る日本文化考



◆春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り

◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)

 春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされていた。そして山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされていた。

 サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言う。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうだ。

 このように、サクラは稲作信仰と強く結びついている。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうだ。ちなみに、サクラはバラ科で、原産地は韓国済州島である。

◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)
 
 民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れる。

 一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在した。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもある。
 
◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会) 

 「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことである。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われる。

 花祭りは、仏生会・浴仏会・灌仏会などとも言う。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようだが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われている。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようだ。

 この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛ける。

 またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもある。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もある。

 お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われる。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがある。


スサノヲ(スサノオ)


◆桃の節句とひな祭り(二)

2007年03月01日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:39 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆桃の節句とひな祭り(二)

◆◇◆桃の節句と雛祭り、江戸元禄時代に日本の庶民階級にも行事として定着

 そして、庶民階級にも桃の節供(桃の節句)の習慣が浸透し始めたのは江戸時代である。

 一般庶民(ことに農民)にとっては桃の節供(桃の節句)を過ぎると秋の収穫期まで続く農作業の季節となる。

 楽しみの少ないこの時代、これから始まる辛い労働に備えて十分に休養をとり、また楽しく遊ぶという意味で「磯遊び」や「浜下り」という磯や砂浜で潮干狩りのような遊びをしたという。おそらく「浜で遊ぶ」ということは、元々の「水に入って禊ぎする」という本来の行事が姿を変えたものだと思う。

 現在でも桃の節供(桃の節句)には蛤を食べる習慣が残っているが、そういえば、旧暦の三日と言えば、海の潮は大潮に近く、潮干狩りにはもってこいというのもあったのかもしれない。この辺も「磯遊び」の時代の名残かもしれない。

 現在の桃の節供(桃の節句・雛祭り)の形は元禄時代にほぼ完成したといわれている。この時代は庶民の経済力が著しく増した時代で、経済的に余裕の出来た庶民が競って豪華な雛飾りを作るようになり、雛壇にたくさんの人形を飾る者も現れ現在に至る。

 またこの時代、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃんの誕生を祝う「初節句」の風習も生まれて、桃の節供(桃の節句・雛祭り)はますます盛んとなった。

 江戸市中には雛市(ひないち)が日本橋十軒店(じゅっけんだな・今の室町)や茅町(かやちょう・今の浅草橋)など各所に立って大変にぎわう。

 またこの頃から付属の雛人形や雛道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られるようになっようだ。幕府は雛人形の華美を禁じるお触れを再三出している。

 明治時代に入ると新政府は従来の節句行事を廃止して新しい祝祭日を定める。しかし、長い間の人々の生活に根を下ろした行事は簡単にはなくならず再度復活する。

 大家族で一つ屋根の下に暮らしていた昔の人々は、こうして桃の節供(桃の節句・雛祭り)を祝うことで、情緒のある生活を送り、家族の絆の大事さを学び、育ててきたのであろう。

 このように桃の節供(桃の節句・雛祭り)は日本の守り続けてきた伝統的な生活文化の一つである。

 さて、桃の節供(桃の節句)の「桃」については旧暦当時の三月を代表する花であるということ、さらに桃は昔から邪を祓う霊木とされていた(桃にはそもそも中国伝来思想として、魔避けの力があるとされている)と言うことと、桃は「女性」を思い起こさせる花であると言うことから、女の子の節供には「桃の花」となったと考えられる。

 桃の花が女性を象徴すると言う考え方は中国の影響かもしれない。周の時代に成立したといわれる詩経に王が佳い嫁を探す歌が有るが、その中に既に「桃の花のような女性」と謡われている。

 こういった古典に親しんでいた平安貴族にとって女性の節供の花は桜でも梅でもなく「桃」だったのであろう。


スサノヲ(スサノオ)


◆桃の節句とひな祭り(一)

2007年03月01日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 23:38 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆桃の節句とひな祭り(一)

◆◇◆桃の節句と雛祭り、 奈良~平安時代に日本の貴族階級の行事として定着

 旧暦の三月三日は「桃の節句」あるいは「雛祭り」である。五月五日の端午の節句が男の子の節句といわれるのに対して、三月三日の桃の節句は女の子の節句だ。

 節句は本来は「節供」と書き、江戸時代には五節供として、法制化された式日(当時の祝日)があった。

 それは、一月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午(たんご)、七月七日の七夕(しちせき)、九月九日の重陽(ちょうよう)の五節供(五節句)である。旧暦の三月三日の「桃の節句」あるいは「雛祭り」はその一つである。

 現在の新暦の三月三日では桃の花には早すぎるようだが、旧暦でいえばもう少し遅い季節になり、ちょうどよい季節だった。

 さて、三月三日は「桃の節句」と言われるが、もとは「上巳(じょうし)の節供」「元巳」といわれた。「上巳」とは旧暦三月の上旬の「巳の日」と言う意味で、三日に固定されていたわけではなった。

 現在の様に三月三日に固定されるようになったのは中国の三国時代、魏(AD220-265)の国でのことで、日付が固定されてからは三月三日と「三」が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」ともいわれるようになる。

 中国古代に於いては、上巳の節句には河で禊ぎを行い、穢れを落とし(これを「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という)、その後に宴を張る習慣があった。

 また同じ日に「曲水の宴」も行われ、奈良~平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での「桃の節供(桃の節句)」の始まりのようである。

 しかし日本ではどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代(かたしろ・人形)で体を撫で、これに穢れを移して河や海へ流すという日本的にアレンジされた行事として生まれ変わる(陰陽師を呼んで天地の神に祈り、季節の食物を供え、人形に自分の厄災を託して海や河に流す、無病息災を願う祓いの行事になる)。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域がある。

 さてこの形代、いつの頃から公家や上流武家の間で上司への贈答の品となる。

 こうなると質素な形代であったものが豪華な人形へと変化していく。やがて河に流すものでなく、家に飾るようなものも作られるようになった。

 その一方で公家の子女が「雛遊び」として紙などで作った人形と御殿や小型の調度品(身の回りの道具)を並べて遊ぶままごとがあり、長い月日の間に、こうした行事と遊びの両者が融合して「雛祭り」「雛人形」への道を歩むことになったのである。

 雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれいる。しかし、この室町時代頃から安土・桃山時代頃にかけては、まだ、今の桃の節供(桃の節句・雛祭り)の形式とはかけ離れた祓いの行事の日であった。

 この日が華やかな女性のお祭りとなるのは戦国の世が終わり、世の中が平和になった江戸時代からのことだ。江戸初期の寛永六年(一六二九)、京都御所では盛大な桃の節供(桃の節句・雛祭り)が催された。

 これ以降、幕府の大奥でも桃の節供(桃の節句・雛祭り)を行なうようになり、やがて、この習慣は上流から町民へ、大都市から地方へと広がっていくのである。


スサノヲ(スサノオ)


◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(二)

2007年02月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 21:00 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(二)

◆◇◆豆撒き、追儺と豆占と迎春呪術

 今ではかなり簡略化されているが、民間における「豆撒き」は、まず大豆を煎って一升桝に入れ神棚へ供えた後、家長が「鬼は外、福は内」というよく知られる言葉を叫びつつ、部屋の中や出入り口に撒く。このような節分のスタイルになるのは、平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた「追儺(ついな)」(中国から伝わる儀式)に始まる。

 古来からの農耕行事「豆占」と習合して「豆撒き」が全国に広がったのは室町時代頃から、そして今の形になるのは江戸時代だと考えられている。

 豆は鬼の目を打って追い払うと考えられ、桝に残った豆(あるいはまいた豆)を自分の歳の数だけ食べると一年を無病息災に過ごす事ができるとするのが一般的である。

 追儺の行事が入ってくる以前から、日本では農耕の占い「豆占」を行っていた。撒いた豆で一年の気候や吉凶を占う「豆占」(大豆を十二個灰の上に並べ、右から順に一月、二月、三月・・・と決め、豆の焼き具合によって月々の天候を占う年占=としうら)が地方に見られる。

 この他にも、節分に柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿す風習が日本の各地で行われていた。さらに豆撒きには、陰陽道(陰陽五行思想)の迎春呪術としての意味が隠されている(「火剋金」)。このように様々な要素が入り込み、今日の日本式節分の行事が出来たといえよう。

 余談だが、節分の日の横に切らずに棒状のままの巻き寿司を恵方に向かって食べると、幸福になるという言い伝えを広めたのは、海苔の消費拡大のために寿司業者と海苔業者が働きかけたことがきっかけである。

 確かに大正の初めに大阪の花街で、お新香の漬けかかる節分の時期にお新香を巻いた海苔巻を恵方に向かって食べるという風習はあったが、それが太巻き寿司に変わり大手の寿司チェーン店の宣伝を通して全国的に広まったようなのだ。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
 
(※注1) 現在行われている豆撒きを始めとする行事の由来は、諸説はあるが中国の周王朝時代に編まれた「周礼」に則り平安時代に毎年大晦日(一説には二十八日)に行われた追儺(ついな)の儀式が元になっているといわれている。

 「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を追い払う行事に他ならない。当時の「鬼やらい」は十二ヶ月それぞれの疫病神を表す十二匹の鬼に扮した鬼役と、松明を翳してそれを打ち据える役が立ち回りを演じるもので、豆を撒く習慣は無かったようだ。

 また原形はやはり陰陽五行思想を元にした形であったようだ。豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり、これは節分の夜に十二ヶ月に擬えた十二個の大豆を灰の上に並べてその焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていた。

 この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもする。この二つの行事が融合して一説によると鎌倉中期に、または室町初期に民間へ広まり江戸期になって全国的に現在の形に近くなったといわれている。

 江戸中期以降の一般的な江戸での節分は豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿す。主人が神前仏前に灯りを点し、竃を清めて鬼打ち豆を煎って、煎りあがった豆は桝に入れてから三方へ載せてその年の年男に渡され恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち順に家中の部屋すべてへ豆を打つ。

(※注2) 節分の夜などに柊の枝に焼いた鰯の頭を挿したものを門口に挿し、「焼いかがし」という風習が日本の各地で行われていた。「焼っかがし」などとも呼ばれ、語源は「焼き嗅がし」である。

 これは棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるようだ。もともとは、臭気の強いネギやニラ、また煮干しや髪の毛などを火にくべ、虫の口焼きと称し、呪文を唱えたそうである。

 農家では、農薬が普及する前は、田畑の害虫を煙や悪臭で追い払ったのだ。それを害虫の活動がそろそろ始まると考えられた立春の頃に行っていたのである。この日本の伝統と中国の鬼払いの追儺の儀式が混合され、このような節分の行事が成立したと見られている。


スサノヲ(スサノオ)


◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(一)

2007年02月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 08:59 Comments( 0 ) 年中行事に見る日本文化考



◆節分、追儺、鬼やらい、豆撒きの由来(一)

◆◇◆節分とは、邪気を払い新しい春を迎える儀式。冬から春への変わり目

 二月の節分(三日あるいは四日)に行われる「豆撒き」の行事は、現在でも神社や寺で広く行われているが、この行事は元々宮中で大祓えの一環として大晦日に行われていた「追儺(ついな)」「鬼儺(おにやらい)」という悪鬼・疫病などの厄払い行事(古くは中国に始まった儀式で、疫病・災害、陰気・寒気を鬼に見立てて追い払います。道教・陰陽五行思想=陰陽道の影響が色濃い儀式です)が元となっており、次第に民間でも行われるようになったものである。

 旧暦(太陰太陽暦)では今の二月が一月であり、遥か昔は立春こそが本来の元旦であった。そして、立春の節分の日は本来の大晦日であったのである。つまり、明日が立春というこの日は一年の終わりであり(年越しの日に当たり)、新たな春を迎えるために家の中の邪気(冬の寒気とも)を払い福を迎えたのである。

 すなわち節分は年迎えの行事でもあるのだ。今でも節分・立春に正月行事を行う例は少なくない。近畿地方では節分を「神の正月」などといい、神だけの正月を行うものとされている所もある。このように、節分の翌日は立春、春が始まる日である。この日には椿(つばき、木へんに春と書きます)の花を飾る。冬の寒気を払い春になったことを示す花とされるからである。

 節分というと二月(和名月名:如月、梅月、木芽月、 初花月、雪消月、麗月など)の立春の前日(雑節の一つ。大寒より十五日目)のことと思われがちであるが、本来は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、一年に四回の季節の変わり目を意味する(昔は「せち分れ」といい季節が変わる節目)。

 特に、一年の区切りとなる立春の前日が特に重視され、ただ節分といえば、二月の立春の前日を指すようになった。旧暦(太陰太陽暦)では「立春正月」といって、この日は年頭もしくは年の暮れに当たる(立春は冬から春への変わり目)。

 古来日本では、季節の変わり目には、鬼に象徴される「厄」が生活の中に入り込み易いと考えられており、これを祓う「追儺式」や「鬼やらい」の儀式が行われた。つまりこれが、「鬼は外、福は内!」の「豆撒き」の風習であり各地の寺社での「鬼追いの節分祭」だったのである。

 その後次第に民衆に広がり、「その昔、鞍馬の奥に人に害を与える鬼がいて、賢者がその鬼の目を三石三斗(六百リットル)の大豆で打ち、退治した」などの説話も生まれるのである。(※1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※1) 節分といえば、立春の前夜、「鬼は外、福は内」と豆を撒く行事をすぐに思い起こす。しかし元来、節分とは二十四節の内、大きく季節の替わりる立春、立夏、立秋、立冬の前日の日(雑節の一つ)を示す言葉で、古く平安時代の『源氏物語』や『枕草子』、また様々な和歌集などでは立夏や立秋の前日をも節分と呼んでいた。

 節分とは関係なく、大晦日の夜、宮中では鬼やらいという行事があった。儺、追儺(おにやらい、ついな)とも表記されたが、殿上人が桃の弓と葦の矢で鬼に扮した者を追い回すという邪気=邪鬼を払う行事で、文武天皇の慶雲二年(七〇五年)頃に日本の起源を求めることができそうだ。

 そこから約百八十年後の宇多天皇の頃には、立春の前夜に豆を撒くという行事に変わったようである。旧暦では、年内に立春が来てしまったり、正月松の内にたいてい立春を迎えるという事情から、いつしか追儺などの行事は立春前夜の節分にということになったと思われる。

 また、節分の鬼や柊(ひいらぎ)と鰯(いわし)は付き物である(棘のある柊の葉や焼いた鰯の放つ悪臭による魔除けの意味があるそうだ)。この他、節分行事では厄払いの為に大豆やその他の自然の作物がたくさん使われ、自然に感謝しながら家族や隣人の健康と幸せを願う行事といえる。

 紀貫之の『土佐日記』の中に、承平四年(九三四年)土佐の国を出発し都に向う船中、都の元旦を思い起こす件があるが、注連縄、柊とともに鰯ではなく鯔(ぼら)が出てくる。節分追儺と元旦行事がこの時代にはまだ混在していたようである。

 ちなみに、俳句の世界で立春は春、節分は冬の季語となっている。また、この季節に咲く節文草(せつぶんそう) という花があり、これはキンポウゲ科の多年草で早春に咲き出すので、この名がある。山地の樹陰などに群落をなし、地中に球状の塊茎があり、高さ十~二十センチくらいで、二~三月頃になると白色五弁の小花を開く。


スサノヲ(スサノオ)