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◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)
桜の語源については、春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされています。山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされています。サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言われています。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうです。そうしたように、サクラは稲作信仰と強く結びついています。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうです。
◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)
民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れるとします。一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在しました。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもあります。
◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)
「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことです。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われます。仏生会・浴仏会などとも言います。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようですが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われます。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようです。
この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛けます。またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもあります。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もあります。
お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われます。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがあります。
スサノヲ
◆神社の魅力を伝えるWeb活用支援事業(2012年「古事記編纂1300年紀」事業)
・Webサイト 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.jinjaweb.com/
・リーフレット 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://jinjaweb.com/pdf/leaflet.pdf
・Blog 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.susanowo.com/
・関西テレビで放映されました。
http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2011_01_28.html
・朝日新聞に掲載されました。
http://www.susanowo.com/archives/2126

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(三)
正月元旦の前日、つまり大晦日の夜を除夜という。実は古くから、この除夜から元旦(元旦の「旦」は地平線に日が昇った状態を表した文字なので、元旦は元日の朝あるいは午前中を意味し、歳朝=さいちょう、大旦=おおあしたとも呼んだ)にかけては寝てはいけないといわれてきた。
なぜなら、正子(しょうし、夜の十二時)を過ぎたら、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願するのが慣わしであったからである。
それが、共同体や神社の発展とともに、初詣という「行事」として根付き、今日に至っているようである。(※注1・2・3)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 正月の準備は十二月から始まる。「煤払い」や「門松迎え」「餅搗き」「年神棚」を設えたり、「おせち料理」の下ごしらえをするなど様々な準備をして年越しの夜を迎える。これが大晦日である。
古くは日が暮れるのが一日の終わりと考えられていたので、正月の歳神(年神)祭りは大晦日の夕刻から始まるとされていた。
身体を洗い清め、年神への供物をし、家族揃ってお節料理を食し、寝ることを忌しんで歳神(年神)を迎え神人交歓するのある。
早朝には年男が汲んだ「若水」で洗顔したり、またお茶を入れ、雑煮を作って飲食し新たな年を祝う。また歳神(年神)に供えた餅の一部を年長者から家族に分配する。
これが「年玉」であり、神の霊が籠もっているという。そして皆そろって一つ年を重ねるとされた。古くはこうして囲炉裏を囲んで家族揃ってお正月を迎えたのである。
(※注2) 大晦日は十二月の晦日のことで、一年の最後にあたるため大晦日と呼ばれている。「年越し」「年取り」「大年」「大つごもり」「おもっせい」とも呼ばれている。
年越しのための様々な行事が各地で行われる。大晦日の食事は地域によって様々な伝承があり、この日の夜の食事が特別なものとされていたことが窺える。
魚を用いた食事が多いようである。そばやうどんを食べる習慣は各地で見られ、 「年越しそば」とか「晦(つごもり)そば」と呼ばれている。そばには長いものを食べると長命になるという縁起担ぎの意もこめられている。
また除夜は「除歳」「除夕」とも呼ばれる。旧年を除く意味で、大晦日の夜のことをいう。歳神(年神)を迎えるため、夜を徹する風習もある。
寺では、百八つの除夜の鐘が撞かれる。「百八つ」は人間の煩悩の数だとされ、除夜の鐘はこの煩悩を消し去るのだそうだ。しんと静まり返った夜半に響く鐘の音は、来る年への新たな決意とともに、身のひきしまる思いがする。
(※注3) 初詣は除夜の鐘が鳴り終わってから元日に土地の氏神や神社仏閣に参詣することをいうが、元日に限らず松の内に年が明けてからはじめて参詣することをいう場合もある。
古くは一日の終わりが日没と考えられていたので、一年の終わりは大晦日の日没とされていた。大晦日の夜に社殿で徹夜をすることが各地でみられ、これを「年篭り」という。
今日では一日の区切りは夜中の零時になり、そのため大晦日の夜に詣でる「除夜詣」と、年が改まって元日に詣でる「初詣」とが区別されるようになった。
除夜に参詣してのち一度家に帰り、元旦になって再び参詣したり、大晦日の夜から元日になるまで神社にいることを「二年参り」と呼ぶところもあるそうだ。
また若水とは元日の早朝にその年初めて汲む水のことで、「初水」「福水」とも呼ばれている。歳神(年神)に供え、正月の食事の支度や、洗顔にも用いる。
若水を汲むことを「若水迎え」「若水汲み」といい、水道が普及するまでは各地で正月の儀礼の一つとして行われていた。 若水を汲むのは年男の役目とする所が多く、水を汲む場所は掘り井戸だが、井戸が掘られる前は川や泉であった。
スサノヲ (スサノオ)

◆正月の起源と生命の循環と再生のシステム
※正月の起源については(大自然に抱かれた、魂の循環と再生のシステム)
太古の昔、古代の日本人(倭人)には倭人の時間観(暦)があったようで、その時間観(暦)は太陽と月が規定していたようである。では、その倭人の時間観(暦)とはどういうものであったのであろうか。
それは、世界と人間が「死と再生」を繰り返す時間と考えていたようだ。時間とともに世界と人間は、死に再生するものだと考えていたと思われる。
倭人にとっては、中国の文明文化を受け入れた古代以前の太古において、時間観(暦)は、天空にある太陽と月であったはず。この二つの天体・太陽と月が太古の時間を基本的に規定し、年と月の観念が出来上がったと思われる。
年は太陽の周期で、その活動には二極の節目あった。すなわち最盛期と最弱期で、今で言う夏至と冬至の頃がそれにあたる。
そして冬至期こそが、太古の「正月」であったのかもしれない。正月とは一年の始まりである。始まるためには一度終わっていなければならない。すなわち死んでいなければならないわけである。
事実、世界の神話や祭祀を見れば、冬至は太陽の死である。そして同時に新たな太陽の誕生の時でもあった(太陽祭祀や太陽復活祭などから)。
もしかすると、太陽の死と再生のときが「正月」であったのかもしれない。それは太陽ばかりではなく、人間にとっても同じで、人間もこのとき死に、再び生まれ、蘇るのものと考えていたようだ。(夏至期の時にも、世界と人間は死と再生をくり返すと考えられていたようである)
月についても太陽のように、死と再生をくり返す。そして月の霊威の最盛期は満月の夜である。この夜、世界と人間は最大の生命エネルギー(生命力)を浴びる。これが「月見」だといわれている。
このように太古の時間観(暦)は、月の「死と再生~満月~死と再生」というひと月のリズムと、太陽の「死と再生~最盛期~死と再生」という一年のリズムとから成り立っていたようだ。そしてそのそれぞれの節目が「祭り」であり、ハレの日と夜であった。
この太古の時間観(暦)は、日本人の精神の深層(古層)にしっかりとあり、その後の中国文化(中国仏教も)の受容により春節(正月)などを取り入れ、古代国家による官製化がなされ、さらには欧米文化を受容してきたいま現在に至っても基本的には変わらなかったようである。
新文化を表層において、あるいはより深く受け入れても精神の基底においては「日本(太古の日本人の精神)」があったのである。
すると、死と再生こそが「正月」(祭り、ハレの代表)の本義であったことになる。このときに生命を更新しなければ、世界と人間はケガレ(気涸れ)てしまうのである。
よみがえり(黄泉返り)とは、文字どおり死んで再生することである。当然のことながら、本当に死んでしまったらよみがえれないので、象徴的に儀式的に死ぬことになる。
太古の時間観(暦)と農耕文化が確立してくると、再生の中心は稲霊(魂)に移り、またこれと並行して祖霊崇拝を軸とした魂祭りの要素が大きくなる。
時期的には、農作物の取り入れが終わり次の農作業が始まるまでの農閑期が、一年の中で集中的なハレの期間となる。こうして正月が年中行事の中でも揺るがぬ首座につくようになったようなのだ。
スサノヲ(スサノオ)
◆春、花見の由来は祓いのための宗教的行事
◆◇◆花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事、元々は神事でお祭りだった
桜の木の下での春の楽しみといえば、お花見でだ。「三日見ぬまの桜かな」と歌われたように、うっかりするとすぐに散ってしまうのが桜である。
定番のお花見といえば、桜の木の下で日頃の憂さ晴らしとドンチャン騒ぎ、その日ばかりは無礼講のようでだ。今日においてはお花見とは名目で、本当は桜は酒の肴にすぎず、飲み食いに重点があるようである。
しかし、花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事だったようである。期日が設定され、野山に出かけ花を愛で、その下で楽しむことで、厄を祓(はら)い神さまと過ごすとされていた。
かつては、秋の稔りを願い、花の下でお祭りをし、花で収穫を占ったのである。開花は神様が降りられた証で、パッと散ると凶とされた。
お花見は平安時代より貴族が始め、今の京都の二条城のあたりに天皇が行幸(ぎょうこう)し桜見物を行ったそうである。その後、貴族・武士の間で盛んになり、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」は有名だ。
江戸時代になると庶民の娯楽として定着する。桜の季節が近づくとなぜか心が弾む。日本人にとって、花見はきってもきれない春の楽しみになってしまったのである。
お花見といえば 「桜」、何故だろうか? 「花」といえば「桜」をさすほど日本人にとっては大切な花となった。
また桜は山の神が降りてくる時の目印になる木として、特別に神聖視されており、お花見に付き物のお酒も、本来は神に供えたお下がりを皆でいただくものであった(今は、全く本来の意味を忘れてしまっていますね・・・苦笑)。
さくらの「さ」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)、「くら」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)のおわします座を意味し、桜の木は神様の依り代であるのだ。
また、「咲く」から来ているという説もあり、花といえば桜、咲くといえば桜だったとしたら、これも長い歴史の中で日本列島に受け継がれてきた精神的遺産(無意識の日本人好みの花として)ということだろうか。
スサノヲ(スサノオ)
◆春、花見と団子と稲作信仰
◆◇◆団子と稲作信仰、三月は十六団子、四月は花見団子・・・
団子は昔から季節に応じて食べられてきた。三月は十六団子である。山の神さまが下りてきて田の神さまになる時にお供えするものだ。
四月は花見団子である。桜を見ながら、桜色の団子や三色団子などをいただく。旧暦八月には月見団子。中秋の名月を見ながら、白い団子を頂く。十一月にはまた十六団子。今度は田の神様が山に戻って山の神様になるのにお供えする。
◆◇◆団子の起源と語源
日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃であろうといわれている。初期の団子はいわゆる「粢(しとぎ)」で、米・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・豆・椚(くぬぎ)の実・楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子であった。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式だ。
「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではないが、中国の「団子(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)」から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説、などなどがある。
串団子は室町時代頃に発生したと言われてるが、最初の頃は五個刺すのが基本であったが明和年間に四個のものがはやったとされた。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺している。
スサノヲ(スサノオ)