Posted by 滋賀咲くブログ at
この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(九)

2006年09月04日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 09:00 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(九)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、丹後・山城-2

 丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではないだろうか(あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた等)。

 丹後の「比治の真名井(ひじのまない)」は、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠であろう(海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い)。

 丹後半島の中央部竹野郡弥栄町字溝谷に溝谷神社がある。溝谷神社の祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命、竹野郡弥栄町から溝谷を通り過ぎるあたりの船木には奈具神社(祭神豊宇賀能売命)がある)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。

 当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞嗚命を祀ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。


スサノヲ(スサノオ)


◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(八)

2006年09月03日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:27 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(八)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、丹後・山城-1

 京都府には北部から南部まで新羅関係するの神々が祀られている。北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。南部の京都盆地には「素盞嗚尊・牛頭天王」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い松尾大社、賀茂神社がある。

 丹後地方は日本海に面し、古来から大陸や半島との往来が頻繁にあった。またこの地方は弥生時代には王国があったといわれている。特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祀ったといわれる。

 さらに丹後地方に隣接する出石郡には、新羅の渡来人である天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に色濃く残る。

 丹後地方の若狭湾に沿った地域は、新羅系渡来人である天日槍や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)など伝承と共に、伊奨諾(いざなぎ)、伊奨冊(いざなみ)神話から始まり、山幸彦(天火明命(あめほあかり))の天降り伝承をもつ冠島や海人(あまべ)族の系図をもつ籠(かご)神社などがある。

 丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。『和名抄』に、タニハノミチシノリ(田庭道後)とあり、南の大和からみて北側の奥にあるという意味であろう。

 丹波は“たには”といわれ、豊受大神(穀物神)が初めてこの国に鎮座して神饌米を供したことから田庭と書かれたという。古代の「たには」国は、丹後、丹波、若狭、但馬を含む大国で、日本海を往来した海人族が大陸文明を取り入れた先進地域を形成していたようだ。

 丹後半島には古代の伝承や説話が多く残っており、古代遺跡も多い残っている。特に天孫降臨と類を同じくする渡来人の漂着神話や伝承は多い。そして、数多く存在する神社は、弥生時代から古墳時代にかけての古代祭祀遺跡や古墳をその境内にもっているものも多い。

 伝説で有名な神社には、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに来た徐福を祭る新井崎神社(与謝郡伊根町)、浦島と乙姫伝説(『日本書紀』雄略天皇二十二年)が伝わる宇良(浦島)神社(与謝郡伊根町)、更に、羽衣伝説で有名な乙女神社(中郡峰山町)や、矢田、波弥、名木、枳(からたち)の各神社(中郡峰山町)がある。

 さらに、彦火火出見尊(山幸彦)を祭神とする元伊勢の籠(この)神社(雄略天皇が天照大神を伊勢に祀る前には当地に祀られていた)がある。この元伊勢といわれる籠神社の参道には天の橋立であるが、伝承によると、天にあった男神・伊奨諾大神が、地上の籠(この)宮の磐座(いわくら、太古の斎場)に祀られた女神・伊奨冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子(はしご)を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったと伝えている。

 大国主命が沼河姫と共に当地に住んだ時、姫が病に罹った時、少名彦命が治したという伝説に基づく小虫神社、大虫神社(与謝郡加悦(かや)町)。この加悦町は伽耶を意味し、朝鮮半島の人(高天原といわれる)の渡来してきた町であるという。


スサノヲ(スサノオ)


◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(七)

2006年09月02日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(七)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越前)と若狭湾-2

 美浜町菅浜(敦賀半島の西側)に鎮座する「須可麻(すかま)神社」という新羅系の有名な神社があり、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれている。『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である(湖東の坂田郡息長村を中心にした勢力)。

 『美浜ひろいある記』によると「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へ持ってきた」とある。

 また、小浜市下根木(しもねごり)には白石(しらいし)神社が鎮座する。白石も新羅からの転化(白木・白城・白子・白石などと変わる例が多い)であるといわれ、新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。

 さらに、小浜市から滋賀県今津方面に向かうと若狭媛神社があり、その奥の巨石には「鵜の瀬」(東大寺二月堂「お水取」行事の源泉)なる場所があって「鵜の瀬大神」を祀っている(若狭彦の神=彦火火出見尊=彦天火明命=山幸彦=饒速日尊?と若狭姫=豊玉姫命の神が降臨したという)。

 越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤であった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、あるいは継体天皇と係りのある越前地方は、朝鮮半島や大陸との往来で渡来文化が盛えた同一文化圏であった(古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住)。

 日本の各地には「しんら神社」と呼ぶ神社もあるが、これらは近江国大津にある園城寺(三井寺)の新羅(しんら)神社と何らかの繋がりを持つ神社、即ち園城寺から勧請されたり、新羅三郎義光やその子孫、或いは三井寺の開祖・智証大師円珍などとの関係があると考えられている。

 一方、近江の園城寺と直接の繋がりが無いと思われる新羅神社は「しらぎ神社」と呼ばれており、それらの神社には新羅ないし新羅系渡来人に係る伝承が残っている(中には、神功皇后の三韓親征説話に係るものも多い)。

 さらに今庄町合波には、武内宿禰(朝鮮渡来系の豪族の共同の「父」としてのイメージか?)と係りの深い白鬚神社があり、祭神は武内宿禰尊・天御中主神・宇賀御霊神・鵜葺草葺不合尊・熊野大神・豊受大神・大己貴命・猿田彦命・春日大神・秋葉大神・金山彦命・土不合命・八幡大神・清寧天皇・吉若大子だ。

 応神天皇が武内宿禰と共に敦賀の笥飯(けひの)大神を拝んだことなどの説話からすれば、今庄地方も越前の一地方として大きな一つの文化圏の中にあったと考えられる。すると、高麗系や新羅系の渡来人が混在していたのかも知れない。当地方の神社は信露貴彦・白城・新羅など、社の由緒や呼び名が同一であったことは、古代においてはこれらの地域が同一の生活圏であったことを示すものと考えられるのだ。


スサノヲ(スサノオ)


◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(六)

2006年09月01日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 0 ) 神社に見る日本文化考



◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(六)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越前)と若狭湾-1

 若狭地方は日本海沿岸の古代日本の先進的地域であり、若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。また若狭地方も、新羅・加耶系氏族に関わる伝承や伝説が多く存在し、神社の祭祀氏族としては、秦氏が圧倒的に多いのだ。

 しかも新羅信仰を今に伝えている神社がいくつか残っている。それが、敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(白木)、「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見)、小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来)などである。さらに、応神天皇や継体天皇との関連がある「気比(けひ)神社」「角鹿(つぬが)神社」「須可麻(すがま)神社」なども新羅・加羅系の氏族が祖神を祀ったといわれている。

 若狭地方の敦賀の名称は渡来人・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものとされ、『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。

 古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国…海路。漕二敦賀津一。…至二大津一…。」とあり、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接な繋がりを持ち、日本海の産物を琵琶湖経由で、畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。

 この敦賀には気比神社があり、都怒我阿羅斯等・天日槍に関係する神社だ。祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神で、境内には式内社「角鹿神社」がある。また『日本書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとある。

 すると、応神の元の名前は去来沙別であり、新羅・加羅系の人であったということになるのだ。さらに、気比神宮寺にある都怒我阿羅斯等の伝承は、頭に角を持つ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったとしている。すると、気比神社の祭神である伊奢沙別命は、任那の王子・都怒我阿羅斯等(新羅の王子・天日槍?)であり、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことになるのである。

 若狭地方の白木も元々新羅と書いていたが、中世になり白木と書かれるようになったそうで、新羅・加耶系氏族が広く分布していた。また、新羅のことを白城として白の色をあてたのは、新羅が西方の国で五行思想では西方が白色であることによる。この地にある白城神社(祭神・白木明神=鵜茅葺不合尊)は、神武天皇と新羅(加耶)国と関わりを感じさせるが、新羅・加耶系の人達が日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだことを物語っている。

 さらに沓見には信露貴彦神社があり、この神社の宮司・龍頭家は新羅系の家系であることから、信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。祭神は瓊瓊杵尊と日本武尊で、古代の新羅系渡来人との繋がりが深く、白城神社とも同系の氏族が祀ったものとされる。


スサノヲ(スサノオ)


◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(五)

2006年08月31日

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments( 2 ) 神社に見る日本文化考



◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(五)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越中)と能登半島

 能登半島は、古代大陸や朝鮮半島の先進文化を直接に吸収し、新羅や加羅の渡来人(特に秦氏)が多く住み着いていたという。そのため、大陸や半島と同質の文化圏を形成していた地域で、この地域の神社は8割が渡来系の神であるといわれている。

 気多神社(羽咋市)、白比古神社(田鶴浜町、古くは新羅神社と呼ばれる)、久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ、中島町〈古くは熊来郷〉、祭神・都怒我阿良斯等神)も新羅(加羅)系の神社である。白日神、天日槍、都怒我阿羅斯等は、同じ神で新羅・加羅系の神(新羅の王子か?)であった可能性がある。さらに、新羅系渡来人・秦澄の創建した白山比咩(しろやまひめ)神社もある。

 能登半島七尾湾の田鶴浜町白浜に鎮座する白比古神社の「白」は、新羅の古称の斯羅・斯盧・新良であり、更にその元の名は斯(し)で羅は国土の意味であったと考えられている。『神祇志料』には「 白比古は新羅神の謂にや」と記されている。『古事記』上巻の「大年神の系譜」には「其の大年神…次に韓神(からのかみ)、次に曽富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)…」とあり、白日神は「新羅の日の神」、即ち新羅の神のことである。また、九州筑紫野市にある筑紫神社の祭神は白日別(しらひわけ)命と五十猛命であり、白日別は素盞嗚尊の別称といわれている。

 川尻にある荒石比古神社の荒石は、古くは「アライン」「アラント」「ツヌガアラシト」と読まれ、白比古神は古くから石舟明神とか白髪明神といわれていた。こうした伝承は朝鮮半島の『三国遺事』にも残されており、それによると「新羅・阿達羅(あだるら)王の四年(157年)に東海の浜辺で藻を採っていた延烏郎(よんおらん)という男がいた。ところが延烏郎が乗っていた岩が急に動きだして彼を日本に運んで行ってしまった。それを見ていた日本の国人が、この人は普通の人ではないとして国王にした。延烏郎の妻の細烏女(せおにょ)は…岩は細烏女も日本に運んだので、国王となった延烏郎は妻を貴妃にした。二人が日本に行ってしまうと新羅では太陽と月の光が消えてしまった。…」という説話である(天孫降臨と太陽信仰が日本にもたらされたことを示す)。

 新羅・加羅系の神とされる都怒我阿良斯等は、『日本書紀』垂仁二年によると「崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、一つの船に乗って越の国の笥飯の浦(今の敦賀)に着いた。それでそこを名付けて角鹿という。何処の国の人かと尋ねると、大加羅国(4~6世紀頃、朝鮮半島南部に栄えていた国)の王の子、名は都怒我阿羅斯等。…」と記されている。

 「額に角の生えた人」とは牛頭の冠をかぶった姿ではと考えられ、スサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞嗚尊)も牛頭天王・武塔天神と呼ばれることや、スサノヲ命の伝承に新羅の曽戸茂梨(ソシモリは牛の頭の意味とも)に天降ったとする記述があることなど、朝鮮半島(特に新羅)との結びつきが色濃く窺える。


スサノヲ(スサノオ)