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◆小正月、農耕を中心とする予祝の行事(一)
◆◇◆暦による二つの正月、大正月と小正月
正月の行事は年中行事の中で最も重要な行事である。正月は新たな年の始まりとして歳神(年神=としがみ)を迎え、一年の無病息災と、その年の稲作や畑作の豊穣を祈る行事や神事が多くみられる。
今日行われている正月行事には元旦を中心とする大正月(朔正月、中国から朔旦=さくたん=ついたちの朝を正月とする新しい暦が入ってきて、官庁で行われはじめる)と、
十五日(望を中心とする小正月の正月、満月から始まる正月であり、かつては月の満ち欠けにより、満月から満月までを一ヶ月とした暦を使っていた。そのため、年の初めの正月は十五日から始まりました)と呼ばれるものと、
二つの部分に分かれている(民間の間では混乱が生じて、両方の正月を二重に祝う所もある)。
古くは月の満ち欠けによって月日の移り変わりを計っていたので、満月の十五日「望(もち)の日(原始的な暦法では満月の日が初日)」が一年の始まりであった(お盆が今でも十五日を中心としているのはその名残である)。
しかし、持統天皇の四年(六九〇年)、公的には新月の日を一日とする中国の暦法の太陰太陽暦(太陰暦に季節を調節するための太陽暦を加えた暦=旧暦)が使われ始め、暦上の一月一日が元旦とされた(月の満ち欠けによるものながら、欠けた月が再び満ち始める日を初日としました。これを朔日=さくじつという)。
そこで朝廷の決めた一日正月(朔正月)を「大正月(おおしょうがつ)」とし、昔ながらの十五日正月(望の正月)を「小正月(こしょうがつ)」と呼ぶようになる。
つまり、正月が二重になるのは中国の暦法が取り入れられて、官によって励行されることによって変わったためで、暦を中心としたのが「大正月」(中国の暦法にならって官暦では)で、月齢を中心にしたのが「小正月」(農耕と生活のリズムが月の満ち欠けで日を数える朔望暦=さくぼうれきで行われていた)といえる。
その後、次第に元旦中心の正月(一日正月、朔正月、大正月)が定着し、正式な正月として祝われるようになっていっても十五日(十五日正月、望正月、小正月)の正月行事は残っていく。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)昔の生活は、月明かりを利用することが多かったため、闇夜の大正月より望(もち=満月)の小正月の方が重視され、昔の生活の上ではむしろ小正月が年の境目であった。
つまり一月十五日の満月祭が最も中心的な年初行事の行われる日であったのが、元日に年初が移されてから、元来十五日に結び付いていた行事が二つに分れ、一つは元旦の方に引き寄せられていったものと考えられる。
したがって重要な正月は、小正月の方に集中しているわけで、太陰暦から太陽暦への移行に伴って、現在でも旧暦で行事を営んでいる地方と、新暦で行うようになった地方とが交じり合っている。
(※注2) 大正月は門松を立て、鏡餅を神棚に供えて神迎えをする年頭の儀礼行事などがあり、今では元旦の正月(一日正月・朔旦正月・大正月)ばかりが盛大に行われているが、元来は一月十五日の小正月の方が重んじられ、人々は色々な祝い事や慣わし事を、大切に守り伝えてきた。
小正月は「望の正月」「女正月」「花正月」「年取り」「小年」など地方によって様々な呼び名がある。日本の古い暦観念では、月の満ち欠けを基準にしていたので、望(満月)の頃が、むしろ正月の始まりであったとも考えられてる。
つまり大正月に公式的な行事が多く、小正月にかつての日本人の農業を中心とする祝行事や生活に即した民俗信仰による行事(農耕に対する予祝=五穀豊穣を祈る儀礼行事)が集中している。
また、小正月の時期の始まりはいつからかは明らかではないが、行事の性格上からは仕事始め、鍬入れ、山入り、若木迎えなどと呼ぶ日からとも考えられる。
スサノヲ(スサノオ)

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(七)
「お節(おせち)」とは節日に用いられる料理のことで、「御節供(おせっく)」の略のことである。季節の節目に神に供えるものということで「節供」ともいう(今は節句と書くことが多いようだが、本来は節供です)が、 節日のうち特に正月の食事のことを指す。
歳神(年神、五穀を司り家と家族に福運をもたらす神)を迎える正月は家族が一同に会し、供物の一部を分かち食する「直会」を行い新年を祝った。また、お節料理は三が日あるいは松の内までに大切な人を招いてもてなす料理でもあり、この饗応自体を「お節」あるいは、「お節振舞」といったそうだ。
本来の意味からすると雑煮や屠蘇もお節料理の一種とも考えられる。現在、一般的にお節料理と言えば重箱に盛られた重詰めの料理のことをいうが、 お節料理は、それぞれに目出度い謂われがあり、目出度い材料を用いた「ハレ(晴れ)の料理」であり、地域によっても様々である。
さらに、火を使わないで食べることの出来る料理でもあり、年中忙しい竈の神様と女性を休めるための料理ともいわれている。また、一月七日の朝には七草粥の風習がある。(※注1・2・3・4)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 昔は正月だけでなく、五節旬(一月七日・人日、三月三日・上巳、五月五日・端午、七月七日・七夕、九月九日・重陽)などの節旬の日に神様へお供えし、神事のあとの酒宴で一緒に食べたすべてのごちそうをお節(おせち)といっていた。
正月にお節料理を食べるのは、神に供えたごちそうをみんなでいただくという意味と、神様を迎える正月に台所仕事をしてさわがしくしないという意味と、日ごろ忙しい主婦を三が日間休ませるための保存食であるといわれている。
(※注2) お節料理の一般的な重詰めは、*一の重(口取り)きんとん、かまぼこ、伊達巻き *二の重(焼き物)小鯛の塩焼き、ぶりの照焼き、鶏肉の松風焼 *三の重(煮物類)八つ頭、牛蒡、人参などの煮染め、昆布巻 *与(四)の重(酢の物)紅白なます、菊花かぶ *祝い肴(三つ肴・・・一の重に詰めるか、別の器に盛る)数の子、田作り、黒豆 ※祝い肴は明治初期まで「喰積」と呼ばれていた。
当時は現在の煮物類をおせちと呼び、祝い肴を喰積(くいつみ)と呼んで重詰めにしていたようである。 江戸幕末の頃、江戸・京都・大坂では正月に蓬莱を飾り、江戸においてはこれを喰積と呼んでいた。
三方の中央に松・竹・梅を置き、まわりに白米を敷き詰めます。その上に橙一つ、柑橘類、搗栗、ほんだわら、串柿、昆布、伊勢海老などを積み、さらに裏白、ゆずり葉などを置いたもので、京都と大阪では床の間に飾り、江戸では年賀の客にすすめたそうだ。
(※注3) お雑煮は 正月の祝いの食物である。一説に、もとは大晦日の夜に歳神(年神)に供えたものを、元日の朝に下ろし、汁で煮、歳神(年神)と人が一緒のものを食べる「直会(なおらい)」といわれている。
雑煮で正月を祝うようになったのは室町時代といわれている。雑煮は、餅が臓腑を保養するところから「保臓(ほうぞう)」といい、本字は烹雑で、烹は煮と同じであるから雑煮になったそうだ。
雑煮は地域によって色々な料理法がある。だしや具ひとつとってみても、実に様々だ。また、雑煮に餅を入れる地域は多くあるが、例えば香川県では、 餅の代用としてカンノメ(カンノメとは粳米八割、糯米二割をひいて小判型の団子にしたもの) と呼ばれるものを入れる。また元旦に餅を食べることを忌む餅なし正月の伝承も各地に残っている。
(※注4) 七草粥の風習は、一月七日の朝に七種の菜(芹=せり・薺=なずな・御形=ごぎょう・はこべら・仏の座=ほとけのざ・菘=すずな・すずしろ の春の七草 )の入った粥を食べる習わしのことをいう。
現在でも全国的に行われている七日正月の行事で、邪気を祓うとされている。また、七草には様々な薬効があるといわれている。
古くは子(ね)の日の遊びともいわれ、平安時代には正月最初の子の日に野に出て若菜をつむ風習があった。『延喜式』に見られる七種粥と、若菜摘みの古俗と、中国の人日(じんじつ)の行事が合わさり、七草粥になったのであろうといわれている。
七草粥の習わしは江戸時代まではかなりに盛んに行われていた様だが、幕末頃の民間では七種のうち1、2種の菜を入れるだけだったとか。 今日でも 七草の種類は地域によって違いがあり、七種に限らない所もある。
スサノヲ (スサノオ)

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(六)
床の間に鏡餅を飾るのは、神への供物の意味がある。また、お屠蘇は不老長寿の薬効があるとされる薬草を調合した、屠蘇散を浸した薬酒である。
雑煮には地方によって様々なパターンがありますが、必ず入っているのが餅である。鏡餅もそうですが、新年に迎える歳神(年神)の魂を示すと考えることもある。それは神に供えたお下がりを貰うという気持ちから来ている。
正月の注連飾りに伊勢海老や橙、昆布を飾り立てるのは食物の豊作を祈念してのことである。(※注1・2・3)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 鏡餅とは、神供用の丸くて平たい餅のことで、「お供え」「お鏡」とも呼ばれている。もともと歳神(年神、大晦日に訪れた歳神は、人々に新たな生命力・福をもたらします。この生命力・福を「魂」といい、歳神によって与えられる魂なので「歳魂(としだま)」といいます)に供える餅(歳魂を具現化したものが丸い餅です)のことをいう。 昔から神仏の祭りには餅を供える慣わしが広くみられた。
「鏡餅」という名は、鏡の形に由来する。古く、鏡は神の依るところと考えられ、神事に使われ宗教的な意味合いの濃いものであった。今日でも、神社の祭事には薄い鏡状の丸餅を供える所があるそうだ。
鏡餅を供える場所は、床の間や神棚、仏壇、年棚といった所から、近年では住宅事情により多様化してきている。この鏡餅(神棚に祭った丸餅が始まり)から、歳神の霊力(歳魂)を得て、これを家人一人一人に分け与えて食し、霊力を体に取り込むという考たのだ。これが本来の「お年玉」とされてる。
また、鏡餅の飾り方は、 三方(さんぽう)に奉書紙(四方紅)を垂らして敷き、譲り葉(後の世代まで長く福を譲る)と裏白(長命を表す)を載せ大小二つの鏡餅を重ね、その上に橙(家系が代々繁栄する)の他、串柿(幸福をしっかり取り込む)、昆布(よろこんぶの意味)、四手(御幣)、海老(えびの中でも最も立派なもの、腰が曲がるほど長寿を願う意味)、扇(末広)などを飾ったものが一般には知られているが、飾り方も地域や家によって違いがある。
(※注2)このような形(様式)になったのは室町以降といわれています。建築様式が寝殿づくりから書院づくりへ移り、床の間が設けられる様になり、床飾りとして広まったと考えられます。武家社会では武家餅(具足餅)といって、鎧兜などの具足をしつらい、その前に鏡餅を供えて家の繁栄を願うところも多くあった様です。また供えた餅を下げる日を鏡開きといいます。 一月十一日に行う所が多く「鏡あげ」「オカザリコワシ」とも呼ばれており、餅を叩き割って雑煮や雑炊にして食します(鏡餅は包丁で切ってはならず、手や鎚で割って小さくするのがしきたりです。これは「切る」は縁起が悪いからということで、そのため「開く」ということばを使います)。正月に鏡餅を供えることは一般化されていますが、地域によっては、正月の儀礼食に餅を用いず、芋や麺類を用いている所も少なくありません。
(※注3) お屠蘇とは正月に飲む、屠蘇散を浸した酒または味醂のことをいい、「屠蘇延命散」とも呼ぶ。一年の邪気を祓う祝い酒のことである。
「屠」は退治する(邪気を払い寿命を延ばすといういわれがあり)という意味を、「蘇」は病を起こす厄神の意味があるという。「一人これを飲めば一家病無く、一家これを飲めば一里病無し」などといわれ、正月には一年の無病息災を願った。
山椒、桔梗、肉桂、白朮、防風などを調合して紅絹袋に入れ、酒か味醂に浸す。古くから、「屠蘇祝う」と称して元日にはこれを一家の若い者から順に大中小三種の盃で頂き、無病息災を祈った。
正月に屠蘇を飲むことは、中国の唐代まで遡る。 日本へは平安初期の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二四年)に伝えられ、宮中で用いられました。元日から三日間御薬を天皇に献じ、一献は屠蘇、二献は白散(白朮、桔梗、細辛を調合して温酒で飲む)、三献は度嶂散(麻黄、山椒、白朮、桔梗、細辛、乾薑、防風、肉桂を調合したもの)を入れたもので、「御薬を供ず」という。
また、平安時代の貴族は屠蘇、白散のいずれかを、室町時代では白散を、江戸時代の徳川幕府では屠蘇を用いていたようだ。この風習はやがて庶民にも広まる。
明治末頃は、年末になると薬種屋の店頭には延寿屠蘇散と書かれたビラが下がったそうだ。現在の屠蘇はかつての処方とは異なり、だいぶ飲みやすくなっている。
スサノヲ (スサノオ)

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(五)
正月には新年を迎える、つまり歳神(年神)を迎えるために家々ですることがある。神棚に新しい護符を祀り、歳神(年神)降臨の依り代として門松を立て、家の入り口には聖と俗を分かつ注連縄を張る。
これすべて、神を迎えるために必要な手続きである。新しい護符を祀るのは、新しい年の新たな加護を受けるためである。護符とは、神社の社名や神名、祈祷の文などが書き込まれたお守りのことで、神札ともいう。(※注1・2・3・4)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)門松とは、正月に家の門口に立てる松のことである。「松飾り」「門の松」ともいう。 古くから門松は歳神(年神)の依代(一種の神籬)と考えられていた。
門松の形態と材料は地域によって様々で、興味深いものがある。門松の常緑の松は強い生命力の象徴であり、不老長寿の象徴である。
地方によっては松に代わって榊、竹、椿などを用いることもあるそうだが、いずれも常緑という点で「長寿の象徴」ということに代わりはないようである。
門松は年末に飾り、歳神を迎え正月六日(または七日あるいは十五日)にこれを外すことから、この日までを松の内という。また餅同様、正月に松飾りを用いない所もある。 飾り方も幾通りもありますが、年末のうちに飾り付けを済ますのが通例である。
(※注2) 注連飾りとは、正月などに、家屋の入り口、門松、床の間や柱につける飾りのことである。 もとは一本の縄であったものが多様化し、装飾的になり、現在見られる様な形となった。
注連飾りは、「輪飾り」「大根じめ」「牛蒡しめ」など、また注連縄につけるものとしては、裏白(常緑の歯朶:しだで、歯は年齢、 朶は枝の意。葉の裏が白いことから白髪になるまでという長寿の願いが込められている)、橙(代々:代々家が続くという縁起物)、譲り葉(ゆずり葉:その名は新しい葉が出てから古い葉が落ちるとこに由来する。家督を親から子へ譲り、代々続くことを願う気持ちが込められている。親子草とも)が一般的であるが、地域によって様々である。
注連縄は本来、内と外とを分け、災い、不浄なものの進入を防ぐ結界として神社などの聖域に張り巡らされるために用いられてきたものである。
(※注3) お年玉は、「歳神(年神)からの賜物」「歳の魂」という意味がある。鹿児島県・甑島では「トシダマ」という丸い餅を子供に配る風習がある。また出雲地方では歳神(年神)が大晦日に「トシダマ」を配ると伝えられている。
他にも多くの地方で、「みたまの飯」といって、握り飯や少しずつ取り分けたご飯に、一年の月の数か、家族の人数分の箸を立てて、歳神(年神)や仏壇に供える行事が広く行われている(「御魂の飯」といい、祖霊を祀る御魂祭りの名残り)。
その歳神(年神)の依り代として立てるのが門松である(松だけではなく常緑樹を使う場合も多いようだ。松は歳神を待つに通じることや、神土待つ=かどまつ=歳神・年神がこの地に降り立たれるのを待つという意味があるそうである)。
正月には「正月棚」「年棚」と呼ぶ歳神(年神)用の祭壇を設ける。床の間に鏡餅や正月飾りを供える。床の間とは本来、家にお迎えした歳神(年神)の「神の座」なのである。
(※注4) 年始とは「年賀」「年礼」ともいい、親戚や知人宅などへ新年の挨拶に廻る慣わしのことをいう。元々は、分家が本家に集まり、大晦日から元日にかけて夜を徹して行われた儀式で一族の結束を確認しあう意味があったとされている。
のちに年始の先は血縁だけではなくなって行き、新年に知人やお世話になっている人の家へ年頭の挨拶に出向く形をとるようになった。 現在通例となっている年賀状はこの年始の挨拶が変化したものである。また初夢とは新年最初に見る夢のことである。
古くは立春正月の概念から、初夢は節分の夜から立春の朝にかけて見る夢とされていた。今日では、一般には元日の夜から一月二日の明け方にかけてに見る夢を初夢と呼ぶのが通例となっているようである。昔の人は今日よりも夢見を気にし、良い夢を見ようと七福神や宝物をのせた宝船の絵を枕の下に敷いて寝る慣わしがあった。
スサノヲ (スサノオ)

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(四)
正月というのは、元々は年の初めにあって神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの「祭りの場」であった。人々にとっては実り豊かな一年であるかどうかは死活問題であっただけに、神の来臨を仰ぎ祭る、初詣の祈願は欠かせなかったのである。
しかし今日では、人々は新年の無病息災などを祈願するために参詣するようになる。「♪年の初めの ためしとて 終なき世の めでたさを 松、竹たてて 門ごとに 祝(いお)う今日こそ 楽しけれ ♪初日の光 さしいでて 四方に輝く 今朝の空 君が御影に 比(たぐ)えつつ つぎ見るこそ 尊とけれ」(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 一年のはじまりの日、つまり元日の朝、元旦は「明けましておめでとうございます」という挨拶とともにはじまるが、いったい何がめでたいというのであろうか?
それは、元日とはそもそも正月の満月の夜に、歳神(年神)をお迎えして、旧(昨)年の無事と豊作を感謝し、今年も同様であることを祈る日であったからである。
また、「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを・・・」という正月の歌がある。「ためし」は験しで、修験の験、効験の験である。「めでたさ」の「めでたい」は古語では「愛でたし」で、何かを称えたい、何か特別なことを褒めたいという格別の気分を表している。この正月の歌では「世(現在の世)」がめでたいと歌い上げる。それがいつのまにか正月挨拶の「お目出とう」になったという。つまり目が出るわけではなく、芽が出るのである。
中国ではめでたさのことを「福」といって、一陽来福を祝う。もともとは冬至の祝福であったものが、やがて春節(旧暦正月)を迎える行事に吸収されて行く。いずれにしても「めでたさ」は季節の節目に際し、宇宙や世界の秩序が更新され、自然の年齢も更新された新年の「世(現在の世)」を祝福する言葉であったのである。
本来旧暦の正月十五日がこの日にあたり、明治六年まで使われていた太陰太陽暦(天保暦)の名残である。この暦制が太陽暦(グレゴリオ暦)に取って代わっても、この日に行なわれていた行事やしきたりは「小正月」として伝承され、左義長、どんど焼き、なまはげなどのさまざまな行事が今でも各地で催されている。
(※注2) 正月とは一年の一番初めの月のことをいうが、一般には年初の諸行事のことを指す。一月を正月と呼ぶのは「正」が年の初め、年の改まる意味であることに由来する。
また稲が実って一巡する期間をを「年」という(「稔(とし)」が豊穣を祈願する意味に通じることからである。古くは正月は「ウラバンナ(盂蘭盆)」と対応するもので、半年ごとに祖霊を祀る大きな年中行事とされていた。
正月に迎える歳神(年神)は大きく分けて二つの性格を合わせ持っている。一つは豊作をもたらすの「田の神」の性格、もう一つは各家の「祖先の霊、祖霊」的性格である。
また正月の行事は地域によって違いがあり、元旦を中心とした「大正月」と、一月十四日・十五日を中心とした「小正月」に集中している。旧暦では正月(旧正月)を立春の頃としていたので、その始めを新月の朔日である大正月と満月の望の日の小正月とする二通りがあった訳である。
大正月には歳神(年神)や祖霊を迎える性格の行事が多く、小正月には五穀豊穣を願う農耕の予祝的行事が多く見られる。農業を営む人々にとって、太陽の運行と同時に月の満ち欠けも大切なもので、古くより予祝儀礼を年初の満月の日に行うことがなされていた。
新暦(太陽暦)採用後は満月と小正月の十四日・十五日が一致しなくなった為に、農家では小正月の意味がだんだんと薄れていってしまったようだ。現在一般に正月といえば大正月のことを指すが、小正月を祝う風習が今でも盛んに行われている。
スサノヲ (スサノオ)