◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)

スサノヲ(スサノオ)

2006年07月11日 00:00





◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、京の夏祭り、祇園祭のはじまり

 祇園祭(祇園御霊会)は、京都三大祭の中でも、最も有名な祭りだ。例年、まだ梅雨のあけきらない七月中旬の蒸し暑い時に、十七日の山鉾巡行や、前日の宵山にも前々日の宵々山にまで、たくさんの人々が山鉾町あたりへ繰り出す。

 この祭りは、京の人々に融け込んだ恒例の夏祭りだ(山鉾巡行が終わると、夏の本番という)。祇園祭(祇園御霊会)は、四条通りの東の突当たり、京都盆地の東の端に位置する八坂神社の恒例の祭典である。

 その始まりは平安時代初期、貞観十一(八六九)年、京の都をはじめ日本各地に疫病(※注1)が流行したとき、その原因が疫神の祟りとされた。

 多数の死人が出たため、日本の国の数である六十六本の鉾を立てて神泉苑(中京区御池通大宮)に送り、悪疫を封じ込める「御霊会」(疫病退散の祈願)を行ったのが始まり(※注2)とされている。はじめは、疫病流行の時だけ行われていたが、毎年六月七日と十四日に恒例化するようになる。

 さらに、円融天皇の天延二年(九四六)、「祇園社(天神堂・感神院)」は「天台の別院」となり、都の中に「御旅所(おたびしょ)」を設け、祇園社の神様を、一定期間その「御旅所」にお迎えし自分達の町の悪い疫神や怨霊を追い払ってもらう御旅所祭礼(京中祭礼)=神幸祭・還幸祭(※注3)が行われる。

 翌年、「祗園御霊会」は「官祭」になったとされる。その後、「祇園社」の興隆とともに、祇園祭は「祇園御霊会」または、略されて単に「祇園会」と呼ばれて発展するようになった。

 そしてその後、保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていった。

 また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしましたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程です。

(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのだろうか?。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようである。

 また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのだ。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。

(※注2) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行った。

 『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。

(※注3)これは三基の御輿(牛頭天王と他二柱の神様)と、神官、稚児、巫女などの行列が「御旅所」に渡御(とぎょ)し留まった後、社に還るという形態であった。このような古い形態は、「神幸祭」と「還幸祭」として残されているが、稲荷祭や松尾祭にも残っている。今のような、山鉾巡行などなかった。


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