◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(二)
◆◇◆七夕の起源:(2)、古代中国の牽牛織女の伝説
天の川の東に織女と呼ばれる麗しい乙女がいた。織女は機織を天職としており、毎日明けても暮れても機を織りつづけ、髪を結う暇さえなかった。そんな織女の姿を見た天帝は可哀そうに思い、天の川の西に住んでいた牽牛という男と結婚させることにした。しかし幸せな結婚生活にすっかり酔ってしまった織女は、一日中牽牛の傍から離れず、機織の仕事を放棄してしまう。
それを知った天帝は不心得千万と怒って、「即刻天の川の東に戻って機織の仕事をするがいい。愛に溺れて仕事をなおざりにするとは何事か!今後牽牛とは年に一度だけ会うことを許すことにするから、そう心するがよい!」と織女を叱る。
織女は天帝の言いつけに背くことも叶わず、天の川の東に戻り、牽牛に会える日を待ちわびながら、懸命に機を織り続けたのだ。待ちに待った七月七日に雨が降って天の川の水かさが増すと、ふたりは東と西の川岸からただ恨めしげに水面を見つめ続けることしかできない。そんなふたりを見かねた鵲(かささぎ)が、天の川を渡す橋となって、織女を東から西の川岸へと渡してあげるという。
これは、『述異記』の星辰説話(せいしんせつわ)「牽牛織女」(※注)である(『述異記』は明代の張鼎思(ちょうていし)『琅邪代酔篇(ろうやだいすいへん)』に引く文によるもの)。織女=織姫は琴座のべガ、牽牛=彦星はわし座のアルタイル。ちなみに天帝は北極星である(※注)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 中国の古典の中での七夕の二星の初見は『詩経』の中の「小雅」の「小旻篇」で、皇帝などの役人がすべきことをしないことを嘆き、その例えとして「織女星は機を織らず、牽牛星も牛をひかない」といった表現で出てくる。ここには恋愛物語の影は見られない。他に『文選』や『四民月令』などにも書かれているそうだが、ここでも恋愛物語の片鱗も見られない。
それが『月令広義』や『爾雅翼』になると今に伝わるような物語になるそうだ。つまり漢代(B.C.一~二世紀)には今のような物語になったと推測される。七夕物語は大きく二つのパターンに分けられる。一つは機織姫と牽牛の結婚・別れ・再会物で、もう一つは羽衣伝説と言われる物語だ。後者は日本でも地方のオリジナル色の付いた物語として根付いている(琉球地方に多い)。
(※注) 梅原猛氏(国際日本文化研究センター顧問)によると、「七夕というのは牽牛、織女の話。牛は稲作農業には欠かせない。織女も機織で養蚕と関係がある。中国では黄帝の時代、ヒエ・アワ農業の北方民族が、稲作と養蚕を行う南の民族を滅ぼして統一する。黄帝の妻は南方の絹織物に大変興味を持って、南から機織の女をたくさん北へ連れて行ったという伝承がある。妻に会いたいという夫の悲しみが七夕の伝承を生み出したのではないかと、想像する。その養蚕の文化がどのように高句麗に伝わり、百済や新羅を経て日本に来たか。大変興味がある。」と話しています。
(※注) 夏の夜空、天の川を挟んで、ひときわ明るい光を放ちながら、相対する二つの一等星がある。東に位置するは琴座の主星「ベガ」(Vega)、西にあるのが鷲座の主星「アルタイル」(Altail)、その中間の天の川にあるのは、白鳥座の五つの星が作る北十字星だ。それらは、星空に壮大なロマンを描き出す七夕の星たちである。
中国では、ベガが、その近くの二つの星とで作る小さな三角形を「織女」と呼ぶ。アルタイルを真中にして、その両隣の二つの星とで作られる小さな一直線を「牽牛」(あるいは牛郎)と呼ぶ。白鳥座の十字形をなす星たちは「天鵞」と呼ぶ。
我が国では、織女三星を「織姫」(あるいは「たなばた姫」)、牽牛三星を「彦星」、そして、天鵞の十字星を「かささぎ(鵲)星」と呼ぶ。織女と牽牛とは相思相愛の仲であるが、いつもは、天の川に阻まれて逢うことが出来ない。しかし、一年にただ一度、七月七日の夜だけは、鵲が両翼を広げて天の川の上に架けた橋を渡って、逢う瀬の一夜を過ごすことができるだ。それが、七夕の夜なのである。
スサノヲ(スサノオ)