◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(二)
◆◇◆お稲荷さん(稲荷神)と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社と狐
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赤い鳥居に小さな祠、祠の前には二尾の狐。お馴染みのお稲荷さん(稲荷神)である。小さな路地から都心のオフィスビル街の片隅、それにデパートの屋上まで日本全国あちこちにお稲荷さんを見ることがでる。それもそのはず、お稲荷さん(稲荷神)は、もっとも広く信仰されている神様で、神社の三分の一を占め、日本一多く祀られているのだ。それだけ日本人に広く親しまれてきた神なのである。
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お稲荷さん(稲荷神)は五穀豊穣・商売繁盛・大漁守護の神として、民衆の日常生活に密着している身近な神である。中小企業の多い稲作型工業国家日本の繁栄と発展の精神的源泉となっているといえる。
もともとは字の通り稲に関する神であった。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られている。
このお稲荷さん(稲荷神)は、京都の伏見稲荷大社が信仰の発祥神社で、一般に伏見稲荷として知られ、全国三万余りの社の総本社となっている。この社と合わせ、佐賀・祐徳稲荷大社、茨城・笠間稲荷神社を日本三大稲荷と呼ぶ。
また神社ではないが、愛知・豊川稲荷(正式名:円福山妙厳寺)は仏教のダキニテン(茶枳尼天)を稲荷神として祀る(江戸の名奉行・大岡越前守が信仰したことで知られる)。
伏見の稲荷大社は、奈良時代の和銅四年(七一一年)二月の初午の日に、有力な帰化氏族・秦氏の遠祖がこの地に氏神の農耕神として祀ったのが始めといわれる。古代においては各地の豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神(氏神)を祀っていたのである。お稲荷さん(稲荷神)も初めはそういう神だったのだ。
『山城国風土記』はこの「伊奈利社」(伏見稲荷)の起源伝説について、「秦中家忌寸(はたのなかやのいみき)らの遠祖秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)は稲米を貯えて裕福になったとある。
あるとき餅を的にして矢を射いったところ、餅が白鳥になって飛び翔けり、三が峰の山上に止まり、そこに稲が生じた。不思議に思った伊侶具がそこへ神社を建て、伊奈利社と名付けた。」というものである。この伝承でもわかるように、イナリは元来「稲生り(いねなり)」であった。
また、イネナリは主祭神の宇迦之御魂神が月読命に殺された時、その腹から稲が生えたところからの語源で、宇迦之御魂神の神名となったともいう。
あるいは稲荷は、空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会うが、その翁が稲荷神であったともいう。
ちなみに、お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからである。油揚げに寿司飯を詰めたものを稲荷寿司というのは、ここから来ている。
いわば一地方に生まれたお稲荷さん(稲荷神)に対する信仰が、後に日本中に広がることになった大きなきっかけは、平安時代初頭に仏教の真言密教と結び付いたことにある。そのための重要な役割を演じたのが真言密教の開祖・空海(弘法大師)だ。
空海は東寺(教王護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた。その際、秦氏が稲荷山から建造用の木材を提供し協力する。このことがきっかけとなり、お稲荷さん(稲荷神)は東寺の守護神として祀られ、強く結び付くのである。
その後、お稲荷さん(稲荷神)は仏教的な現世利益の考えを取り入れ、仏教の庶民への浸透とともにその信仰を拡大していくことになったのである。
稲荷信仰には狐が付き物だ。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしている。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に通力を使い、六ヶ月前に人の死を知り、その肉を食らうという強力な存在であった。
しかし、仏に降伏させられてからは善神となり、日本では平安時代には、その本体は霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がった。
これが日本に古くからある狐を田の神の使いとする農民の信仰と結びついて、稲荷神自体を狐だと考えるようにもなったのである。大らかに神仏を習合されっていった日本人の宗教観が、ここにも表れている。
スサノヲ(スサノオ)